1976/10/11暗黒時代のRCサクセション「わかってもらえるさ」リリース! 【大人のMusic Calendar】

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中学校の同級生3人が、アコーステックギター編成の「Clover」というバンドを組んだ。最初はコピーバンドだった。あ、でも、ベンチャーズの「パイプライン」を半音ズラして「オキナワライン」っていう曲も演っていたらしい。卒業式の謝恩会で、懸命に練習をしてPPMを演奏。しかし、高校入学で3人はバラバラになってCloverは解散。

破廉ケンチは別のバンドで活動、忌野清志郎と林古和生(リンコ・ワッショー)は、2歳上の先輩、武田清一(のちに「日暮し」を結成)を頼って「Remainders of the clover」というバンドを始めた。初めてお金をもらって人前で演奏したのは先輩の知人の結婚式、初めてライブハウスにも出演して大騒ぎしたらしい(自分たちが)。

しかし、音楽性の違いからRemainders~は自然消滅し、結局、元の同級生3人が再開、「RCサクセション」の結成となった。オリジナル曲を作り始め、ごく身近の仲間の間で人気者になっていった。ありがちな話だろう。今や下北沢でギターを背負った若者の数くらい巷にある話だ。ただ、これは1968年頃の話、48年も前の話なんだ。

そんな高校生バンドが、朝の若者向け音楽番組「ヤング720」に登場するやいなや、周囲の見る目が変わる。校内でも一目置かれるようになった。そして、「東芝カレッジ・ポップス・コンテスト」で入賞。大手プロダクションのマネージャーがスカウトに現れ、契約、卒業と同時にレコードデビューを果たした。1970年3月、シングルレコード「宝くじは買わない」だ。
まるで宝くじに当たったような展開だが、レコードは全国的規模でウケるでもなく、さして大きな話題にならなかった。12月、2枚目のシングル「涙でいっぱい」をリリース。これもさして売れなかった。

2年後の1972年2月、「ぼくの好きな先生」をリリース。フォークソング全盛の中、彼らのレパートリーの中でもフォーク寄りの曲調は話題となって、一躍バンドの知名度が上がった。あの独特で印象的な声が、発売日前後には毎日のようにラジオから流れ、TVK(テレビ神奈川)の音楽番組「ヤングインパルス」にレギュラー出演、毎週の生演奏で彼らの実力は広まった。(ちなみに私がRCを初めて見たのがこの番組)。「僕の好きな先生」の小ヒットは、音楽業界に進むことに猛反対したメンバーの家族にも(リンコさんちだけは「好きにしてくれ」って感じだったそう)、ひとつの安心材料になっただろう。この頃、メンバーはまだ21歳を越したかどうか。

' 72年は「僕の好きな先生」の他に2枚のシングル、2枚のアルバムが立て続けに発売された。田舎に住む中学生の私にもコンスタントにレコードが手に入った。ここまでは良かった。外から見てもいい感じの流れだった。でも、その実、事務所やレコード会社主導のレコーディングに対して、メンバーは不満を感じていた。「ぼくの好きな先生」のヒット以降は、RCのアコーステック楽器でありながら重いサウンド、耳に引っかかるボーカルは、ニューミュジック一色の音楽世界からおいてきぼりを食っていく。そして追い討ちをかけるかのように、RCは事務所側のトラブルに巻き込まれて音楽活動を制限されてしまう。このあたりから、ありがちな話とは事情が違ってくるのだ。

前作から約3年後の'76年1月にリリースされた待望のシングル「スローバラード」は数ヶ月で廃盤。続けてリリースした(と、言っても1年程前に既に出来上がっていたが、契約問題でお蔵入り状態だった)アルバム「シングル・マン」も、今のような高い評価はいっさい受けずに知らない間に消えていった。噂の残り火に小さく「RCはもう終わった」とさえ言われた。

わかってもらえるさ,RCサクセション

その廃盤たちと同年の、最後のリリースが1976年10月11日、この「わかってもらえるさ」なのだ。
今にも消えそうなろうそくの炎のようになっていくRCを、私は相変わらずに追いかけていたのだが、このジャケットを見た時にはサスガに愕然とした。清志郎の手書きで、タイトルとRCサクセションという文字がポツン・・・。コレ、お金がかかっていないんじゃないか(かけてもらえないんじゃないか)って心配した。たとえこのデザインに意図があったとしても、それを感じる余裕はなかった。しかも、ギターはすべて清志郎が弾いていて破廉ケンチはここにいない。

1976年頃のRCのライブは、数はあっても前座が多かった。いままでRCの前座だった井上陽水の前座を、RCが演った。まぁ、これは私にとってそんなに痛手でもない。ライブはまだあるからだ。当時、渋谷ジァンジァンに足を運んだが、精神的に不調だったリードギターの破廉ケンチはその時々で出演したりしなかったり、代わりのギタリストやドラムスが加わったこともあった。いろいろな編成を試しているようだったが、客席はあまり盛り上がらないし、途中で帰ってしまう人もいた。その翌年か、急きょ小田原市民会館のコンサートにRCが出演するという情報が入ってきたので、喜んで出かけてみたら、何かの都合で出られなくなったモップスの代打だった。それでもRCがいいステージだったなら代打も功を奏しただろう。いや、客席はキビシいもので、モップス目当てのお客さんのヤジをバシャバシャに浴びていた。なんだか不憫だった。ちゃんと聴いてみてくださいっ! と、胸の中で言ったが届くはずは無い。

新宿ロフトに行ったらお客さんは5人だった。本当に火は消されていくのだろうか。どこかのライブでみた清志郎は歯が1本抜けていた。数年前のマッシュルームカットのあどけなさが残る清志郎が、ヘンな帽子に花を挿しズルズルの女物の長襦袢のような着物の長髪になった。ヒッピーというよりヤサグレて見えた。

なにしろ、しばらくはそんな時期だったのだ。
それなのに。「わかってもらえるさ」という曲が心に響く。この曲には誰かに向かってるいつもの強気な清志郎はない。感情の底から絞るようにシャウトする清志郎もない。でも、清志郎の声は上下左右にとてもよく伸びていて心地いい。重ねたコーラスには澄んだ空気を感じる。

取り巻く状況が悲壮な分、ごくシンプルに清志郎とリンコの冷静さがあるだけに思える。私には、どうにも、掴もうとしても指の間をすり抜けていく風のようなのだ。「わかってもらえるさ」の、この短いストーリーは、聴き手が自分で感じることが一番なのだ、と言われているような気がした。だからか、すこし哀しげに思えたこの曲も今はまた感じが違って聴こえる。頼もしい。あの頃できた楽曲が、あれから歩き出していろいろな表情をしている。

私の中で、この長かった消えそうで消えない時期も、初めて観たときも、ずっとRCはエリートだった。その後にブレイクして、坂を昇り始め、KING OF LIVE の冠を掲げることができた。エリートにだって最初から約束された道なんかなかった。

【執筆者】片岡たまき

ミュージックカレンダー,ニッポン放送,しゃベル

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