“さくら”の倍賞千恵子、ヒット曲をいくつも持つ歌手としての功績を忘れてはならない。 【大人のMusic Calendar】

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国民的映画『男はつらいよ』で、寅さんの妹・さくらを演じた倍賞千恵子。日本映画の黄金時代から活躍し、今や大ベテラン女優のひとりである。東京生まれの都会っ子は松竹歌劇団を経て映画界入りを果たす。作品にも恵まれて大女優の道を歩んでゆくわけだが、ヒット曲をいくつも持つ歌手としての功績も忘れてはならない。殊に『男はつらいよ』シリーズ終了後は音楽活動に重きがおかれ、幅広いジャンルの音楽を聴かせるコンサートなどを開催している。夫が作曲家の小六禮次郎であることも大きいだろう。6月29日は倍賞千恵子の誕生日。いつの間にか、兄役だった渥美清の没年齢を超えた。

“倍賞”という珍しい姓は、秋田地方にルーツがあるそうで、父親は秋田県出身の由。上京して東京で結婚した後に生まれた千恵子は、西巣鴨で生まれ、北区滝野川で育った。父が都電の運転士、母が車掌というのは、まるで青春映画の設定の様で微笑ましい。ちなみに妹の倍賞美津子とは5歳離れている。小さい頃からのど自慢荒らしだったという千恵子は児童合唱団に所属したこともあるという。ポリドールから合唱のレコードを出したことも。1957年に入学した松竹音楽舞踊学校を首席で卒業し、3年後にSKD(=松竹歌劇団)13期生として入団するも、翌61年に映画界にスカウトされて、活躍の場を松竹のスクリーンへと移すことになる。そして63年、映画『下町の太陽』の主演で山田洋次監督と運命の出会いを果たしたのだった。

『下町の太陽』はいわゆる歌謡映画で、倍賞千恵子の歌手デビュー曲「下町の太陽」のヒットを受けて映画化されたもの。ピークを過ぎたとはいえ、映画産業華やかなりし当時は、ヒット曲の映画化は慣例であった。山田洋次にとっては監督第2作目にあたる。レコードの「下町の太陽」は前年の62年9月に発売され、ディレクター・長田暁二氏によって、作詞の横井弘と作曲の江口浩司に依頼された。それぞれに活躍していた両氏が初めて組んだ作品に自信を持った長田氏であったが、会社側は映画とのタイアップ作品を示唆し、映画『はだしの花嫁』の主題歌「瀬戸の恋唄」がデビュー曲になりかかったところを、長田氏の粘りで同時発売に至らしめたのだそうだ。よって「下町の太陽」と「瀬戸の恋唄」は品番も連なる2枚のデビュー盤ということになる。ちなみに前者が“EB-788”、後者が“EB-789”である。結果、あまり宣伝もされなかった「下町の太陽」に人気が集まりヒットに。その年の日本レコード大賞新人賞を受賞、翌年の紅白歌合戦にも出場して、同時期にやはり歌も出していた吉永小百合や浅丘ルリ子らの人気女優と肩を並べた。キングレコードでは映画スターは育たないというジンクスを打ち破ったのである。

映画でも演じられた「下町の太陽」の庶民的なイメージが、後の『男はつらいよ』のさくら役に繋がったことは想像に難くない。これが無かったら、彼女がさくら役に起用されることはなかっただろう。ただ、少なくとも歌手としては、デビュー曲のキャラクターだけを踏襲していたわけではない。11枚ものシングルが発表された63年は、「パパと歩こう」「青空通り一番地」「南の窓をあけましょう」など、流行の兆しが見られた青春歌謡を中心に、様々な作品が出された。そして翌64年も11枚のシングルと精力的なリリースが続き、65年に入って再びの大ヒット曲「さよならはダンスの後に」が生まれる。「下町の太陽」と同じ横井弘の作詞ながら、小川寛興による颯爽としたメロディで、新境地を開拓。ロングヒットとなり、ミリオンセラーを記録した。小川はこの作品でレコード大賞作曲賞を受賞している。

さらに翌66年にはNHKの連続テレビ小説のイメージソング「おはなはん」もヒットさせたほか、異色盤では、67年の特撮映画『宇宙大怪獣ギララ』の主題歌「月と星のバラード」という、マニア垂涎の一枚もある。『男はつらいよ』出演後の72年に出された「さくらのバラード」は、山田洋次監督が作詞し、映画の音楽を担当していた山本直純が作曲という由緒正しき作品。イメージソングとして作られながら、本編で歌われたこともあった。「忘れな草をあなたに」「リリー・マルレーン」等々、透明感に満ちた歌声は常に魅力に溢れている。女優業のみならず、歌手・倍賞千恵子にも確固たる歴史がある。なお、つい先ごろ、柴又駅前に“寅さん像”に続いて“さくら像”が設置されることが発表された。倍賞千恵子の国民的女優としての名をますます高めてゆくことになるに違いない。

【執筆者】鈴木啓之

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