1982年7月28日は、中森明菜「少女A」の発売日。明菜にとっては同年5月1日発売のデビュー曲「スローモーション」に続く2作目のシングルで、オリコン・チャートの最高5位まで上昇し、彼女のブレイク作となった楽曲である。
デビュー曲がチャートの30位程度で終ったため、明菜のディレクター島田雄三は巻き返しを狙って、2作目のシングルを制作する方針を固める。コンペにより選ばれた楽曲がこの「少女A」で、作詞の売野雅勇は、当初沢田研二に提供したがボツとなった「ロリータ」という曲を改作し、あらたに芹澤廣明によってビートの強いロック調の楽曲がつけられた。さらに島田はサビ部分の「ねえあなた」を「じれったい」に変更し、1番と2番の歌詞を入れ替えることを進言したという。芹澤の曲は、まだ音程が不安定だった明菜のヴォーカルを活かすためか、音域は狭く、徹底して下降旋律で作られている。このほうが歌は安定する上、中低域が強調されることで他のアイドルとの差別化を計る結果ともなった。
作詞の売野雅勇はコピーライター出身で、作詞を手がけてまだ1年目の新人であった。作曲の芹澤廣明は67年にグループ・サウンズ「バロン」のギタリストとしてキャリアをスタート、尾藤イサオのバック・バンドからNHK『ステージ101』のレギュラーとなり、やがてメンバーの若子内悦郎と「ワカとヒロ」を結成。その後ジム・ロック・シンガーズ在籍、ソロ・アルバム発表を経て作曲家に転身する。売野、芹澤ともにこの「少女A」が初ヒット作で、同曲の成功を足がかりに、83年デビューのチェッカーズに数多くのナンバーを提供していくことになる。
デビュー曲がその新人のイメージを決め、2曲目はその発展形として同傾向の作品になるのが通例だが、中森明菜のスタッフは作家を入れ替えて180度違う大胆なアプローチで挑んだ。この清純から大胆への転換に際し、先行する三原順子の諸作品、さらにその前の山口百恵後期のツッパリ歌謡と共通する、ヤンキー・テイストが強く投影されている。この時代、まだ「ヤンキー」という呼称は一般的ではなかったが、外面や行動が不良的に見えてもその実、純情であり、しかしヤンキー的な体質は確実に内在している、といった80年代初頭の10代少女の一傾向を「少女A」は見事に歌謡曲として体現しているのだ。背景には70年代終盤から社会を騒がせた家庭内暴力、校内暴力などの「非行」の問題がある。高視聴率となった学園ドラマ『3年B組金八先生』や穂積隆信のベストセラー『積木くずし』などが注目を浴び、横浜銀蝿的なものの台頭も含め、非行と結びついた新たな形での不良カルチャーが、エンターテインメントの世界に流れ込んできたのである。「踏み外した不良少女も元は普通の女の子」ということもよく言われていた事象であり、まさに「特別じゃない どこにもいる」女の子、「私は私よ 関係ないわ」と言い放ちふてくされた態度をみせるが「本当は臆病 わかってほしい」と甘える少女の多面性とアンビバレンツな神秘さは、中森明菜が歌うことにより、時代に対してのリアリティを獲得したのだ。大衆が一面的な清純派アイドルだけを望んでいなかったことの証明でもある。
もうひとつ、エロティシズム的な側面も指摘しておきたい。デビュー時のキャッチ・フレーズ「ちょっとエッチなミルキーっ娘」からもおわかりの通り、初期の中森明菜からは、10代少女特有のアンバランスな色気が滲み出ていた。不安定感が醸し出す少女のセクシャリティを早くも見抜き、シングル2曲目で大胆に提示してきた明菜スタッフ陣の慧眼は優れたものがあるが、この曲を渡された時、明菜自身は猛烈に抵抗し「こんな曲、歌いたくない!」と言い放ったという。後のインタビューなどでも、好きな曲ではないと語っているので、17歳の女の子としては相当に抵抗があった内容なのだろう。しかし、新人の女性歌手が「性的な魅力をアピールする」という方法もまた歌謡曲ではよくあることで、「四つのお願い」~「X+Y=LOVE」期のちあきなおみや、「青い果実」~「ひと夏の経験」期の山口百恵も、やはりこの線で最初の成功をおさめている。こういったアプローチがちあき、百恵、明菜といった昭和の歌姫に共通しているのは面白いが、その後、三者それぞれの形であっという間にそのセクシャルなイメージを覆して次の段階に進んでいった点もまた共通している。
自身の持つ色気の商品化には耐え難かった明菜だが、それでも、後々までライヴのセット・リストから「少女A」が外されることはなかった。彼女は自分を第一線に押し上げてくれた曲を、大切に歌い続けていたのである。
【執筆者】馬飼野元宏