シャンソンの訳詞をきっかけに流行歌の世界で作詞家として才能を開花させ、多くの優れた作品を手がけた後、小説や随筆の執筆やコンサートや舞台の演出・プロデュース、コメンテーターとしても活躍するなど、幅広い分野で多彩な活動を展開してきたなかにし礼。近年はがんと闘い、見事に克服したことでも知られる。亡き阿久悠と並ぶ、昭和の歌謡曲における代表的な作詞家といえるだろう。9月2日はなかにし礼の誕生日。1938年生まれの氏は今年で78歳になる。
過去に著した自伝『翔べ!わが想いよ』などでも明らかなように、戦前の満州に生まれた氏は、実に波乱万丈な人生を送り続けて現在に至る。戦後、両親が元々住んでいた小樽に引き揚げた後、東京と青森を行き来し、中学からは東京品川に在住となった。シャンソンの訳詞には早くから才能を発揮し、立教大学在学中に『太陽の賛歌~なかにし礼訳詩シャンソン・リサイタル』が、厚生年金会館で開かれている。銀座にあった有名なシャンソン喫茶「銀巴里」に出入りするようになった氏に最初に訳詞を依頼したのは、元宝塚のシャンソン歌手・深緑夏代であったという。銀巴里は三島由紀夫や中原淳一、寺山修司といった文化人が集い、歌手では美輪明宏や戸川昌子、金子由香利らを輩出した伝説の店。その頃結婚した最初の妻との新婚旅行先で、運命の出逢いが待っていた。
なかにしが新婚旅行で伊豆下田を訪れた63年、ホテルのバーで偶然出逢ったのは、映画スターの石原裕次郎であった。自身の会社、石原プロモーション製作の映画第一作『太平洋ひとりぼっち』の撮影で現地を訪れていた裕次郎は、なかにしがシャンソンの訳詞を手がけていることを聞き、オリジナルの作詞を薦めるのである。それから約一年後、作詞・作曲した作品が石原プロに持ち込まれ、作詞家としての処女作「涙と雨にぬれて」が66年に発表されることになる。ポリドール(現・ユニバーサル)から出されたレコードは裕圭子とロス・インディオスによる歌唱で、裕圭子は裕次郎のプロデュースによってデビューしていた歌手。同じ年に裕次郎主演の映画『青春大統領』にも出演している。芸名も裕次郎の“裕”の一文字を貰って付けられたものであった。さらにビクターからも、田代美代子とマヒナ・スターズの歌唱でシングル・リリースされた。銀巴里でなかにしと親しかった田代が友の新たな出発を意気に感じ、自分も歌いたいと願ったことから実現に至った競作である。
恩師・石原裕次郎にも「帰らざる海辺」「ひとりのクラブ」などの詞を提供した67年、石原プロモーションの所属となって心機一転の再デビューを果たした黛ジュンにも「恋のハレルヤ」「霧のかなたに」を書く。その「霧のかなたに」と、菅原洋一の歌で大ヒットした「知りたくないの」を対象として日本レコード大賞作詞賞を得たなかにしは、いよいよ人気作詞家となって、破竹の勢いで作品を発表し続けてゆく。68年に島倉千代子に提供した「愛のさざなみ」は、繊細でたおやかな表現と浜口庫之助の可憐なメロディが相俟って生まれた奇跡的な傑作。無論、島倉の可愛らしい歌唱も大ヒットした要素のひとつであろう。68年には黛ジュン「天使の誘惑」、70年には菅原洋一「今日でお別れ」でレコード大賞グランプリを獲得するなど、大きな勲章も得た。その間の69年には作品の総売り上げが早くも1000万枚を超えるという快挙を果たしている。本人の才能はもちろんだが、キャリアはあれど無名時代のなかにしに歌謡曲の作詞を薦めた裕次郎の慧眼、恐るべし。
69年の大ヒット作「人形の家」、「恋の奴隷」は、それぞれ弘田三枝子と奥村チヨの転機となった極めて重要な作品であり、さらにこの年は、レコード大賞最優秀新人賞を受賞したピーターのデビュー曲「夜と朝のあいだに」も手がけている。ATG映画『薔薇の葬列』などで話題になっていた美少年・ピーターの楽曲を依頼されたなかにしは本人に会い、その中性的な魅力を確認した。男なのか女なのか判別出来ない容姿を見たなかにしが閃いたのは、フランス語で夜は女性名詞、朝は男性名詞だということ。そこからこの傑作が誕生したのだという。これを天才と言わずして何と言おう。「恋の奴隷」は世に蔓延っていた女性上位への反発から生まれたそうで、本人曰く女性のイメージの集大成。「世の女性たちよ、女らしくなれ!」と当時出された雑誌にコメントを寄せている。ひとつひとつの作品に深い意味付けがある。かと思えば、ドリフターズの一連のヒットなど破天荒な作品も一方にあるのだ。
その後の活躍ぶりは枚挙に暇がない。作詞以外にもラジオのパーソナリティーやテレビのレギュラーを務めたり、78年には作曲も手がけて黒沢年男に提供した「時には娼婦のように」を自らも歌って共にヒットさせた。そうしたジャンルを超えた活躍の裏で、実兄が事業に失敗して背負った膨大な借金を肩代わりしていたことを、98年に直木賞候補となった小説『兄弟』によって我々は知らされることとなった。2000年には『長崎ぶらぶら節』で直木賞を受賞した氏は、作詞仕事よりも文筆業にウエイトを置くようになるが、当然今も現役の作詞家であることに変わりない。恩師・石原裕次郎に供した作品では、70年代から80年代にかけて「サヨナラ横浜」「みんな誰かを愛してる」「時間よお前は」などのヒットがあるが、裕次郎最晩年の作品となった「わが人生に悔いなし」がやはり白眉。闘病中の氏にこの詞を歌わせたことを酷と見る向きもあろうが、結果的に裕次郎にとっての「マイ・ウェイ」となったこの曲の存在は尊い。なかにし礼以外には絶対に成し得なかった所業であろう。
「夜と朝のあいだに」写真提供:ソニー・ミュージックダイレクト
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【執筆者】鈴木啓之