「はっぴいえんどのラスト・アルバムをアメリカでレコーディングしたいんだけど」。
当時、キング・レコードに在籍していた三浦光紀氏から私に相談があった。制作費はキング・レコードが持ち、アルバムに入るすべての楽曲著作権をシンコー・ミュージックと契約するというのが条件だった。草野センムに話すと、当時もシンコーは海外との著作権業務等で特にアメリカとの取引が多く、LAには事務所もあったことからか、OKが出た。
新大久保あたりだったと思うが料理屋の2階でメンバーと風都市の関係者、三浦氏とミーティングをし、LAレコーディングは本格的に決まった。
プロデューサーを誰かに頼もうということになり、ジム・メッシーナの名前が挙がったので、私がキャシー・カイザーへの連絡を取ったのだが、メッシーナはメキシコに行っていてLAに居ないということで断念した。
その後、私とキャシーとの間でいろいろなことを決めていくことになる。
とにかく、スタジオと宿泊所さえ押さえておけば何とかなるだろうと、サンセット・サウンズ・レコーダーズと、宿泊はハリウッドBlvd,に近いハワード・アパートメント(一室・週45ドル)、そしてエンジニアはウェイン・デイリーを指定した。後は行ってしまえば何とかなるとキャシーと私の安易な判断であった。…といっても私は日本でやらなければならないことが多分にあった。
日銀へ、アメリカ大使館への申請、私のパスポートには持ち出す金額(もちろん現金ではない)が記されている。キング・レコードのバジェットは300万円(当時1ドル300円)。そのすべてをシンコーが立替え(シンコーはアメリカの銀行にアカウントがあった)、とにかくLAへ行ったのだった。1972年10月4日、もう44年も経ったんだ。
ホリデイ・インで全員でミーティングした後、キャシーから、今サンセット・サウンズでリトル・フィートがレコーディングしているから見に行かないかと提案があり、みんなで行くことにした。
それが彼らが初めて耳にしたLAの音だった。アパートに戻ってからメンバーの誰かから、リトル・フィートのメンバーに手伝ってもらえないかと相談があったので、キャシーに伝えると、レコーディングが最後の段階だから終わったらいいよ、と言っているということで頼むことになった。
私はギャラの交渉。アメリカの場合、基本が1セッション(3時間)、最低でシングル・スケール(110ドル)。もちろんユニオンのランクによって異なる。その時はダブル・スケール(220ドル)で成立することができた。もともと彼らはギャラ云々ではなく、日本から来たバンドはっぴいえんどとセッションすることに興味を持ってくれたのだった。
私といえば、そのギャラやその他の支払のため、アパートとスタジオ、ダウンタウンの銀行を毎日通い詰めていた。ユニオンを通しての支払いはプラス健康保険料のチェックも必要で、東京銀行(ファースト・ナショナル・トウキョウ・バンク)の小林シゲコさんには一方ならないお世話になったことを思い出す。先日、三浦さんにお会いした時もその話になった。彼女とキャシーがいなかったらあのレコ―ディングは成り立たなかったかもしれない。
最も私が大変な思いをしたのは、予算がオーバーし、毎日のように日本へ電話して送金を頼んだことだった。細野さんのベースが盗まれたり、いろいろなトラブルもあったが。
ヴァーンダイク・パークスによるミックス・ダウン「さよならアメリカさよならニッポン」を聴きながら私は思っていた。
はっぴいえんどのメンバーにしてみれば、それまでのアメリカの音楽に憧れてきた部分と自分たちはっぴいえんどのニッポンに、アメリカの地で一緒に卒業して、そこからそれぞれの新しい旅の始まりだったんだと思う。
そして、私が1968年に初渡米して受けたカルチャーショックから見えた日本があり、帰国後、その影響で「ヤング・ギター」を創刊したのだった。
1973年2月25日、はっぴいえんどのラスト・アルバム『HAPPY END』がリリース。このアルバムを通して、その時代に生きた誰もが新しい日本の風景を見たことだろう。
【執筆者】山本隆士