「ハーイ!夜更けの音楽ファン、こんばんは!そして、朝方近くの音楽ファン!おはようございます!Go Go Go and Goes On!」誰もマネすることの出来ない音楽のビートに乗せた独特のトークリズム。自分で選曲/構成して、自分でレコードをかけて、自分でしゃべる。それこそが“本当の意味でのディスク・ジョッキー”という信念を貫き通したのが、Mr.DJ糸居五郎さんでした。
日本の深夜放送の歴史そのものである『オールナイトニッポン』が開始されたのは、1967年10月1日深夜のことでした。その第1回目、マイクの前にいたのは糸居五郎。1921年1月17日、東京市小石川区(現在の東京都文京区)生まれ。その前年、1920年11月に世界初のラジオ放送がアメリカで開始された時代です。
鉱石ラジオと洋画とスウィングジャズが好きな少年は成長し、1941年の夏に満州のラジオ局にアナウンサーとして採用され、4年後に太平洋戦争の終戦を迎えました。日本に引き揚げて京都でアナウンサーとなり、1954年にニッポン放送の深夜部門を番組制作する「ニッポン深夜放送」に入社します(のち、ニッポン放送と合併)。1959年10月、日本最初のオールナイト放送「オールナイト・ジョッキー」が始まり、週4回2時間の生放送を担当しました。そして、その8年後に『オールナイトニッポン』がスタートしたのです。
「番組で紹介する音楽の選び方には、もちろん主観が入るし、レコードの回し方だってタイミングがあるんだ。これをぜんぶ他人まかせにしているジョッキーは、手綱を取らずに馬に乗るようなものだネ」
夜10時。深夜3時からの生放送に向けて、東京都千代田区有楽町のニッポン放送に到着します。いつもスーツにネクタイのダンディなスタイル。自宅のレコードライブラリーから選んだLPレコードやシングル盤で、パンパンに膨らんだ大きな茶色いバッグを手に持って。エレベータのボタンを押して4階へ上がり、ドアが開いて左のスタジオに入ります。
ラジオスタジオは、ディレクターやミキサーが働く調整室にコンソール卓と数台の録音機材があり、その奥にアナウンサーがしゃべるアナウンスブースがあります。通常、アナウンスブースには、マイクロフォンやテーブルや椅子などがあるだけです。しかし、4階の第4スタジオのアナウンスブースだけには、放送仕様のターンテーブルが2台設置されていました。その“自分用のスタジオ”に到着して、まずは、お気に入りのタバコを一服(当時はスタジオでの喫煙も黙認された時代でした、今では喫煙場所以外もちろん禁煙です)。大きく息を吸い込んで、ひとりで準備を進めます。
バッグを広げて束ねられたハガキや手紙を取りだしテーブルに置き、スチールバイプ椅子ふたつにレコードを立てかけ並べます。全国の音楽好きなリスナーが、それぞれに熱い想いとこだわりを書き込んだリクエストの数々。一週間前に郵便室からもらったハガキや手紙は、奥様が読みやすく書き直したカードと合わされて、ひとつのセットになっていました。
この時、一度、制作スタッフがスタジオにやって来て、挨拶と機材のトラブルがないか確認して去っていきます。2時間の生放送のリクエストとレコードの順序を、世相や季節の話題、当日のニュースなどを考慮して考えます。アナウンスブースの床一面に広げられたレコードは、一番左が1曲目で一番右が最後の曲。何度も何度も順序を入れ替えては、曲の流れを考えます。やがて、沢山のレコードの中から選びだされた25枚程度が決定選曲となり、ひとつにまとめられ、その選曲順序に沿ってリクエストカードを並べ変えます。そして、選び出したレコードをターンテーブルに乗せて回します。それぞれの曲のイントロやビート、リズムの確認。その楽曲を自分の中に取り入れていくという感覚なのでしょうか。イントロに乗せて曲タイトルを紹介する、タイトルを紹介してから曲を流す、曲を流してからタイトルを紹介する…それぞれの楽曲が持つ個性や本質に合わせて、紹介方法を変えます。そして、リクエストとリクエストを結ぶトークの裏に流すBGMのレコードを選曲します。そのBGMのチョイスも、前後の曲と何かしらの関連性があるという“判る人には判る”選曲でした。実際にリクエスト曲とBGMを繋げてかけて、心地よさや効果を確認するのでした。
本番20分前。再び、制作スタッフがスタジオにやって来る頃には準備完了。階下にあった自動販売機の砂糖入りコーヒーを飲みながら、一服します。テーブルの上には、原稿はもちろんのこと、何のメモもありません。リクエストハガキとレコードのジャケットだけ。その夜の構成は、全て頭の中に。本番3分前。右のターンテーブルに1曲目のレコードが乗せられ、音の出る溝から4分の1ほど戻す、タイミング良く音楽を再生するための“頭出し”という作業をします。
夕刊やアメリカの音楽業界紙に目を通しているうちに♪ピッピッピッポ~ンと時報が。時計の針は午前3時。生放送のスタートです。ディレクターやミキサーがすることは、全体の音声レベルのチェックとCMを出すだけ。彼らもラジオの前のリスナーと同じ気持ちで音楽を楽しんでいた幸せな2時間でした。まさに“ワンマン・スタイル”のディスク・ジョッキーだったのです。
「僕は、夜明けを見るのが好き。それも、日を追うごとに夜明けが早まってくるシーズンは、いいよネ。とっても希望に満ちた感じで心がトキメイて、たまらなく大好きなんだ」
糸居五郎さんが『オールナイトニッポン』を担当したのは1967年から81年6月30日まで。当初は4時間の生放送で、後期は二部の2時間生放送でした。また、他にも様々な番組で素晴らしい音楽をオンエアしました。1971年、50歳の誕生日には“50時間マラソン・ジョッキー”に挑戦して世界新記録を達成。この年には、オランダ近海に停泊する海賊放送船からヨーロッパ諸国へ生放送も決行しました。世界各地の音楽シーンを取材し、60~70年代は全米DJ会議、国際ディスコ会議に出席しました。1974年は、国際ラジオ・プログラミング会議で「第1回国際最優秀エア・パーソナリティ賞」を受賞しました。
そして、1984年12月27日木曜の深夜午前1時、63歳で天国へと旅立ちました。この12月28日は、糸居さんの業績を偲んで「ディスク・ジョッキーの日」となっています。
【執筆者】神部恒彦(かんべ・つねひこ):放送作家/選曲家。1981年「オールナイトニッポン」のADとして放送業界で活動開始。音楽やドキュメンタリーを中心としたテレビ・ラジオの構成/選曲を担当する。1992年、全ての仕事を終了して渡欧。1年間、欧州各国の景勝地や美術館を見て回る。さらに渡米、自動車でアメリカ大陸を横断しながら様々な音楽聖地を巡って帰国。幅広い音楽/雑学の知識でジャンルを問わない番組/イベントの構成を手がける。