1998年5月27日、椎名林檎が「幸福論」でメジャーデビュー

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1998年5月27日は、当時19歳だった椎名林檎がシングル「幸福論」でメジャーデビューを飾った日である。

今日では彼女の代表曲のひとつとして知られるナンバーだが、リリース当初は高い売上枚数を記録していなかった。彼女が世間から多くの注目を集めるのは、2ndシングル「歌舞伎町の女王」まで、さらにセールス的にブレイクするのは、3rdシングル「ここでキスして。」と4thシングル「本能」のリリースまで待つこととなる。

1998年5月27日、椎名林檎が「幸福論」でメジャーデビュー
1998年5月27日、椎名林檎が「幸福論」でメジャーデビュー
愛し愛されたい“君”の全てを肯定する行為から、自らの幸福を見出し、また自らをも肯定するという歌詞。それまでになかった声の“クセ”と歌唱スタイル。そして、強いインパクトのアーティスト名と、その名の通り“林檎”のような髪型をしたキュートかつエッジィなビジュアルとファッションセンス。こうしたファクターがコアな音楽ファンや関係者の間で話題となり、後に迎えた“ブーム”とも言える熱狂的な人気の土台を築いたデビュー曲だった。

次作「歌舞伎町の女王」の歌詞も手伝って、ひと頃までは、寺山修司をはじめとする“昭和”の文学やサブカルチャーと、彼女のクリエイティブとを紐付けた分析やレビューも散見された。実のところ、椎名はそうしたカルチャーをほとんど通過していなかったのだが、そういった“深読み”を含む様々な解釈を生み出すほどに、彼女の音楽は多くのリスナーの感性を刺激し、魅了していった。

1999年2月24日に発売された1stアルバム『無罪モラトリアム』には、シングル時とはアレンジの異なる「幸福論(悦楽編)」が収録された。その時々のライブやパッケージに見合う形で既存曲のアレンジを変える音楽家としての才覚も、この頃からすでに開花していたと言えよう。

1998年5月27日、椎名林檎が「幸福論」でメジャーデビュー
早く大人になりたい。もっと歳を重ねたい。二十代の頃、椎名は事ある毎にそう語っていた。それは当の本人にとっては必然の産物だった詞曲へ向けられた、“早熟”という言葉に対するもどかしさを表していた。

思えば、「幸福論」の初版8cmCDシングル(※のちにジャケットを12cmにリアレンジして再発)のジャケット写真やアーティスト写真、さらには同曲のミュージックビデオで披露された椎名の姿は、セーラーデザインのトップスにジーンズというファッションで、背中には小さな可愛らしい天使の羽が生えていた。

そして歳月は過ぎ――女性として、音楽家として多くの経験を重ねて、不惑(40歳)とデビュー20周年を迎えた彼女は、今年(2019年)5月27日、6thアルバム『三毒史』をリリースする。ジャケット写真で見られる彼女の姿は、雄々しい翼を広げたペガサスだ。あたかも、「幸福論」の頃に彼女自身が夢見ていた理想の進化を体現したかのように。

1998年5月27日、椎名林檎が「幸福論」でメジャーデビュー
無論、進化はビジュアルのみではない。全ての詞曲は勿論、管弦打楽器やクワイア(聖歌隊)の編曲をも自ら手掛け、日本屈指の演奏家と多彩なゲストボーカリスト(宮本浩次(エレファントカシマシ)、櫻井敦司(BUCK-TICK)、向井秀徳(NUMBER GIRL/ZAZEN BOYS)、トータス松本(ウルフルズ)ほか)が参加したこのアルバムは、彼女の音楽的な進化を堪能するのに十分な一枚だと言っていい。

椎名は『三毒史』をこう語る。「揺籠から墓場までが直接的モチーフになっている。商売云々抜きにした一個人として遺すべき記録」(『三毒史』オフィシャルライナーノーツ(拙文)より)。デビューから「幸福論」という普遍的なテーマを掲げていた彼女の探求心は尽きることなく、その音楽家人生は益々の盛りを迎えている。

椎名林檎「幸福論」「歌舞伎町の女王」ジャケット撮影協力:鈴木啓之

【著者】内田正樹(うちだ・まさき):ライター/編集者。1971年東京都生まれ。雑誌SWITCH編集長を経てフリーランスに。これまでに様々なアーティストのインタビューを手掛ける。椎名林檎/東京事変へのインタビューも複数回実施している。
1998年5月27日、椎名林檎が「幸福論」でメジャーデビュー

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