日本を代表する名ギタリスト、大村憲司。
1998年に逝去して以来18年、その評価はますます高まっている。
今ここにいないということがこれほど喪失感を伴うギタリストはめったにいないだろう。
渡辺香津美、鈴木茂など同世代の名手たちが還暦を超えて円熟のプレイをしているのを見るにつけ、憲司が生きていたら、と思わずにいられないのである。
大村憲司は1949年5月5日、神戸に生まれた。
71年に赤い鳥の『スタジオ・ライブ』に参加したことがプロ活動のスタート。
73年から本格的にスタジオ・ワークを開始し、生涯を通じて厖大な数のレコーディングやライブに参加している。
80年には高橋幸宏の誘いでYMOのワールド・ツアーに帯同。
これをきっかけに憲司の名は全国区になっていく。
1980年、YMOの人気は大爆発した。
それまで何だかよくわからなかったテクノ・ポップという言葉をお茶の間レベルまで浸透させ、カラスの鳴かない日はあっても、テレビやラジオでYMOを聴かない日はないというほどの大ブームを巻き起こす。
その渦中、YMOのライブはたびたびテレビで放映されるようになり、舞台向かって左上の指定席に仁王立ちしていたギタリストこそ大村憲司だった。
その存在感たるや圧倒的なものがあった。
サンバーストのストラトキャスターをメインに、ときどきSEENの赤いストラト・タイプも使いながら、エッジの立った鋭いサウンドを放った。
「テクノポリス」や「中国女」など、大半の曲で淡々とリズムを刻むのに徹し、「ライディーン」や矢野顕子がボーカルをとる「在広東少年」では、す~っと伸びやかなソロやオブリを決める。
目を閉じて、口をへの字に結んだ特徴的な表情で、たったの1音だけを延々とビブラートさせる。
それは強烈な音だった。
そして、極め付きは憲司がフィーチャーされる曲「MAPS」である。
いきなりステージに暗雲が立ちこめるような独特のイントロで憲司がカッティングを始めると、その瞬間、さっきまでテクノだったステージがソリッドなロック・コンサートに早変わりしてしまう。
憲司が歌い出す頃には、これがYMOのステージであることを忘れてしまうほどのインパクトがあった。
「MAPS」はYMOワールド・ツアーのレパートリー中でも、憲司がソロを思う存分弾きまくった稀有な曲である。
憲司は晩年、ギター・マガジンのインタビューに答えて“ギター・ソロとはひとつの物語のようなもの”と語っていたが、おそらくは当時の彼の胸中にあった思いをこのソロに託したのではないか。
「MAPS」の歌詞は、当時YMOと親交の深かったクリス・モスデルの詩集から取ったものだそうで、その内容は“僕のことは地図に載ってない、僕の居場所は一体どこなんだろう”といったものである。
日本人に生まれ、洋楽に影響を受けた音楽をやっていくことに常にジレンマを感じていた憲司が、あえてこの曲を選択し、それを世界に向けて歌い放った。
その憲司の胸中は想像するしかないのだが、むせび泣くような、そして聴く者の心臓をまっすぐに刺してくるようなギター・ソロは、“俺はここにいる”という叫びのような気がしてならないのである。
YMOでの憲司のギターの音は、分厚く太く、気品と誇りに満ち溢れ、国境を超えてどこまでもこだましていった。
そして間違いなく世界地図の上に刻まれたのである。
日本人が西欧社会へ音楽を発信するというYMOのコンセプトを憲司は気に入っていたようで、約1年と短い期間ではあったが、もしかしたら、日々の答えの出ないジレンマから解放されたひと時もあったのではないかと考えたくなる。
YMOへの参加を契機に嫌が上でも憲司の存在はメジャー化し、以後、プロデュースやアレンジの仕事も増えていくことになる。
晩年、ギター・マガジンのインタビューでYMOのことを詳しく聞かせてほしいとしつこく食い下がる筆者に、それを話し出すと本が1冊書けるからおいおい話すよ、と言って笑っていたのが思い出される。
【執筆者】野口広之