1969年6月13日。これはローリング・ストーンズに新メンバーとして若手ギタリスト、ミック・テイラー(当時二十歳/元ジョン・メイオール&ザ・ブルースブレイカーズ)の加入が発表され、そのお披露目記者会見がロンドンのハイド・パークで行なわれた日だ。ロック・ファンなら何度か目にしたことがあるはずの、テイラーを含む新生ストーンズが肩を組んで立っていたり、芝の上に座っていたりする写真もこの日撮影されている。
よく混同されるが、同じハイド・パークでのストーンズの「ブライアン・ジョーンズ追悼」フリー・コンサートはそれから1ヵ月近く後の7月5日に行なわれており、実は新メンバーを迎えて記者会見が開かれたこの6月13日の時点では、まだブライアン・ジョーンズは生きていた。
結成時にはリーダーであったにも関わらず、その後、グループの主導権をミック・ジャガー、キース・リチャーズらに奪われるような形になったこともありドラッグに溺れ、精神的にも体調的にも不調に陥っていたブライアンは、その時期にはスタジオにも現われないことが多くなってきていた。限界ギリギリの痛ましいまでのブライアンのそんな姿は、当時は放送されなかったTVショウ「ロックンロール・サーカス」で今は観ることができる。しかしグループとしては、ニュー・アルバム『レット・イット・ブリード』を完成させ、クリームやジミ・ヘンドリクスらがリードする形で(長いアドリブがとれるギター・ヒーローの存在がポイントとなっていたことに注意されたし!)'70年代に向け、会場の大きさという点でも演奏字間の長さという点でも規模を拡大しつつあった「新しい」ライヴ・シーンに復帰したい。機能しないメンバー、ブライアンの存在がその障害になることは明らかだった。そこでストーンズは'69年6月8日、イングランド南東部にあったブライアンの当時の家でミーティングを行なう。結果、次のようなメッセージ付きでブライアンのグループからの脱退が発表することになったのだ。
「ローリング・ストーンズの音楽は、もう俺の好みではなくなった。俺は自分に合った音楽を演奏したい。彼らの音楽は俺の好みから急に脇にそれて突き進んでしまった …。俺たちが作るレコードで意見が一致するなんてことはもうありえないことだ」『ローリング・ストーンズ グッド・タイムズ・バッド・タイムズ』(シンコー・ミュージック)
しかし実際には、この時点でストーンズは新しい一歩をすでに踏み出しており、新メンバー、ミック・テイラーを迎えて録音したニュー・シングル「ホンキー・トンク・ウィメン」のミキシングまで終えており、ブライアンには他の選択肢は残されていなかった。実質的には解雇だったと言っていい。
事態はそこから急展開する。今回のテーマであるハイド・パークで新メンバーによる会見が行なわれるのはミーティングから5日後。さらに7月3日午前2時頃、スタジオで新曲のレコーディング中だった彼らのもとにブライアンの訃報がもたらされる。その死因については様々な議論があるのでここでは深入りしないが、その事態を受けて7月5日に予定されていた同じハイド・パークでの新生ストーンズお披露目フリー・コンサートは急遽「ブライアン・ジョーンズ追悼」と主旨を変更して開催されたのであった。そこでの演奏は必ずしも成功とは言えない面もあったが、米国に渡ってさらなるリハーサルを積んだ新生ストーンズは同年11~12月、ミック・テイラーのブルージーで流暢なギターを得て「新しい時代」に見事に適応したサウンドで全米を熱狂の渦に巻き込んでいくことになるのである。
【執筆者】寺田正典