【ニッポンチャレンジドアスリート】
毎回一人の障がい者アスリート、チャレンジドアスリート、および障がい者アスリートを支える方にスポットをあて、スポーツに対する取り組み、苦労、喜びなどを伺います。
芦田創(リオパラリンピック走り幅跳び日本代表)
1993年兵庫県生まれの22歳。5歳のとき、右腕が動かなくなる病気を発症。高校から本格的に陸上競技を始め、高校3年生のとき400mで日本新記録をマーク。その後、指導者を付けず自力でトレーニングに励んだ時期もあったが、今年リオパラリンピックに出場。男子4×100mリレーで銅メダルを獲得。東京パラリンピックでも連続メダルを期待される、パラ陸上界期待の星だ。
―右腕が動かないという障がいを持つ芦田。5歳のときに発症した病気が原因だった。
芦田)5歳のときにデスモイド腫瘍から進行したガンを患って、たまたま右腕ばかりにできて転移・再発を繰り返し、できたら治療するという繰り返しで15歳まで闘病生活をしました。10年間治療した結果、ほとんど腕の機能がなくなってしまって指が動かない、リストの力が入らない、その上、小学校5年生のときに放射線治療をしてもう腕の成長を止めてしまっているので、腕の長さが子供のままという障がいを持っています。
―10年にもおよぶ闘病生活、だが治療手段も底を突き、ついには医者から右腕の切断を提案された芦田。そんなとき、奇跡をもたらしたのが陸上との出会いだった。
芦田)どうせ腕がなくなるんだったら好きなことやりたいと思い、運動は好きだったので思いっきり体動かしてみたい、思いっきり体動かす=走る=陸上みたいなところから陸上競技をやってみました。それが奇跡的にも、体を全力で動かしたことによってガンの進行が止まったのです。私にとって陸上競技と出会えたことは、運命的なものでした。
―そんな芦田がパラ陸上に転向するきっかけを与えた人物がいる。北京パラリンピック走り幅跳びで、銀メダルを獲得した山本篤だ。
芦田)パラリンピアンである山本篤という義足の選手に出会う機会があって、「お前、腕悪いんだったらパラの世界来いよ」とスカウトされました。1回ぐらい自分と同じハンディを持った人たちの世界でやってみるのもありなのかなと思い、初めてパラの試合に出てみました。
―2011年、芦田は初めて出場した、日本パラ陸上選手権400m走で日本新記録を樹立。一躍ロンドンパラリンピックの有力候補となった。順風満帆に見えたが大きな落とし穴が待っていた。
芦田)高校3年生の夏に初めて出た障がい者の大会で、日本記録で優勝しました。「なんやこの世界そんなに本気出さなくてもいけるんちゃう」というような甘い気持ちで半年間、本気で練習しなかったんです。それで2012年の4月、初めて出た大会から半年後ぐらいの選考会に出たら全くダメでした。
―ロンドンパラリンピックへの出場を逃し、一時競技生活を諦めた芦田が再びパラ陸上に戻ることになったのは、奇しくも出場を逃したロンドンパラリンピックがきっかけだった。
芦田)ロンドンをテレビで観て、衝撃が走りました。どうして自分はパラリンピックという世界を甘く見ていたのだろう。こんなかっこいい世界があったと本当に衝撃を受けました。こんなにかっこいい場所だったら、本気で目指さなきゃいけないだろうと思い、陸上からは1年近く離れていましたが、そこからパラリンピックという世界を目指すようになりました。
―次のリオパラリンピック出場を目指し、練習を再開した芦田。指導者を置かず、自力でトレーニングする道を選んだ。
芦田)高校の部活を引退してから1年のブランクがあったものですから、体を戻さないことにはしょうがない。早稲田大学に通っていましたが、早稲田大学の体育会の陸上競技部に入れるような体の状態ではありませんでした。最初は、コーチも誰も付けずに1人で陸上競技を復活させました。本を読み、いろいろな練習環境に顔を出し、いろいろな指導者の方や選手にお会いして話を聞き、情報共有しました。とにかく自分の頭の中に知識を入れました。
―刻一刻と迫るリオパラリンピック、だが400mのタイムは一向に良くならない。そこで芦田はある決断を下す。種目変更。
芦田)7年やって、世界のトップの水準に行けていない種目をこのまま継続しても、リオに出られたとしても勝負はできてないだろうと思い切って走り幅跳びに種目に変えてみました。跳躍力に関しては自信があったので、うまくいけばリオに間に合うんじゃないか、またリオで勝負できるんじゃないかと考えました。
―走り幅跳びへの種目変更後、わずか1年で1m近く記録を伸ばした芦田。選考会でも結果を残し、念願のリオパラリンピック出場を決めた。
芦田)やっとつかんだ夢舞台の切符だと思いました。今回、世界ランキング8番以内までですね。リオの選考に引っかかるって日本では言われていて、4月の段階で14位でした。海外遠征、また国内転戦をして、今年の春先はとにかく試合に出まくりました。がむしゃらにやって世界ランキング7番になってつかんだ夢の舞台の切符でした。そこは自分の努力を褒めたいです。
―リオでは、走り幅跳び以外に4×100mリレーに出場することとなった芦田。リレーでは第1走者を務めた。
芦田)1走の役目は、とにかく流れを作ることだと思いました。まずフライングしない。確実にいいスタートを切って、極力先頭でバトンをつなぐというところに集中してレースに挑みました。
―リレー決勝での着順は4位、ところが1着のアメリカが失格となり、まさかの繰り上げ、日本は銅メダル獲得となった。
芦田)「また4位かよ」というのが正直本音でした。タイムが表示された時に、日本記録だったので、「メダル取れなかったけど、ベストを尽くした結果で取れなかったのだからしょうがないか」というような話をしてたんですよ。それでインタビューの方に「ちょっと待って下さい。これ繰り上がりの可能性があります」ってなって、「え?」みたいな、「めっちゃラッキーやん、これ」という気持ちになりました。本来であれば1位だったアメリカの失格でしたが、アメリカがそもそもバトンを甘くみていたのだと思います。日本がバトンパスにこだわってきた部分で確実に成功させて、4着を取っていたというところもあるので、3位になり、誇らしい気持ちでした。
―この夏、自社のCMに出演した芦田、あのイチロー選手との共演を果たし、大きな話題を集めた。
芦田)パラリンピックを普及させたい気持ちもあるので、テレビに映れる、しかもトヨタのCMに出られるということはとてもありがたいことだと思いました。ちょうどオリンピックの合間で日本にいる時にテレビを観て、新鮮な感じでした。結構連絡来ましたね。「もしかしてテレビ出てる?」みたいに言われて、「俺やねん」みたいな。
―世界のトップジャンパーとの差はおよそ60cm、その距離を縮めるため、芦田がしなければならないことは?
芦田)2020年に向けて、個人競技はリオで全く勝負ができなかったと思っているので、どうしたら強い選手になれるだろうと考えています。4年に1度のこの舞台で、偶然に勝つことはないと思うんですよね。運を味方につけてもやはり金メダルを取る選手は、金メダルを取る準備をしてきてると思うので、自分もこの4年間、ここまでやって勝てなかったらしょうがないというレベルまで、自分を追い込みたいなと思っています。
―芦田にとってパラ陸上の魅力とは?
芦田)車椅子や義足など、自分の生身の体と道具とのコラボっていうところも1つの魅力かなと思います。そして、自分の体の使える部分を最大限に使ってパフォーマンスする。そうやって見せようと思うところが魅力なのかなとも思いますし。やはりパラに出る選手はそれぞれの背景があるので、そういったところを踏まえた上で、このパラスポーツ、パラ陸上を観ていただくと面白さが増すのかなと思います。
(2016/11/7~11/11放送分より)
『ニッポンチャレンジドアスリート』
ニッポン放送 (月)~(金) 13:42~放送中
(月)~(木)は「土屋礼央 レオなるど」内、(金)は「金曜ブラボー。」内)
番組ホームページでは、今回のインタビューの模様を音声でお聴き頂けます。