海外での人気とは別に、日本で特別に人気が出るタイプのアーティストがいる。ジャニス・イアンはその一人だ。アメリカでもヨーロッパでも人気の高い人だが、日本での人気の火のつき方は海外とはかなり異なっていた。本日4月7日はジャニス・イアンの誕生日である。
ジャニス・イアンは、14歳のときに作った「ソサエティーズ・チャイルド」が注目され、シンガー・ソングライターとして歩みはじめたが、その道は平坦ではなかった。
音楽には、主に芸能・芸術性で騒がれるものもあれば、社会性で話題にされるものもある「ソサエティーズ・チャイルド」は後者だった。というのは、人種問題がいまよりはるかに大きな課題だった60年代のアメリカで、彼女の「ソサエティーズ・チャイルド」は、黒人少年と白人少女の恋をテーマにしていたことが注目されたからだ。
彼女にとっては、身の回りの体験から作った曲のひとつにすぎなかったが、メディアで騒がれると、そんな思いとはうらはらに、社会派の天才少女というレッテルかが貼られ、色眼鏡でしか見られなくなってしまう。そのプレッシャーのあまりの大きさに、彼女はいったん音楽活動から離れてしまった。
ジャニスがシンガー・ソングライターとして再び注目されたのは、ロバータ・フラックが彼女の「我が心のジェシー」をとりあげたのがきっかけだった。やがて彼女の「17歳のとき」とアルバム『愛の回想録』もヒットして、1970年代後半に彼女はアメリカで最も人気の高い女性シンガー・ソングライターの仲間入りを果たした。しかしそのころの彼女は日本では洋楽ファンに知られている程度の存在だった。「我が心のジェシー」がベトナム戦争の兵士についての歌であるというような内容も一般には知られることはなかった。
状況が変わったのは、バラードの「恋は盲目」やハバネラ調の「ウィル・ユー・ダンス?」がテレビ・ドラマに使われてからで、特にTBS系の『グッドバイ・ママ』のテーマ曲「恋は盲目」とアルバム『愛の余韻』は洋楽チャートの1位を独走。アルバムは半年にわたって売れ続け、ミリオンセラーを記録したというから、当時の洋楽アーティストとしては破格の人気だった。
どちらの曲もアメリカではトップ40入りしていない曲である。海外も日本も同じアーティストを集中して売り出すことがほとんどの現在とちがって、当時は日本独自の洋楽の売り方ができた時代だった。とはいえ、70年代はじめのころまでのように、日本で日本向けの曲を作って海外で無名の人にそれをうたわせるという方式は難しくなっていた。既存の有名アーティストの曲の中から、日本人向けの曲を選ぶことで、洋楽ファン以外の人たちにも聴いてもらえるようにする、そんな時代のさきがけが彼女の「恋は盲目」だったのだ。
それにしても、この曲はよほど日本人好みの曲だった、ということだろう。少女時代からビリー・ホリデイ、エディット・ピアフ、オデッタなど、さまざまな音楽を聴いて育った人ならではの味わいや既知感が歌声にあったことも、幅広い層の人たちにアピールした理由のひとつだった。
そしてその人気は、小柄で気さくな彼女の人柄のよさもあずかってのことだった。ゴジラ好きでも知られ、自身のサイトではゴジラをテーマにした俳句の投稿を募集したりもしている。なかなかのユーモア感覚の持主でもあるようだ。彼女は現在も欧米ではよくツアーを行なっている。
【執筆者】北中正和(きたなか・まさかず):音楽評論家。東京音楽大学講師。「ニューミュージック・マガジン」の編集者を経て、世界各地のポピュラー音楽の紹介、評論活動を行っている。著書に『増補・にほんのうた』『Jポップを創ったアルバム』『毎日ワールド・ミュージック』など。