最近、コトリンゴの「悲しくてやりきれない」であらためて脚光を浴びたのが、サトウハチローの存在だ。映画『この世界の片隅に』に使われたこの曲のオリジナルは、1968年のフォーク・クルセダーズのヴァージョンで、その作詞者がサトウハチローだった。
5月23日はサトウハチローの誕生日である。
自主制作した「帰って来たヨッパライ」の爆発的なヒットで当時のレコード業界を震撼させたフォーク・クルセダーズは、第二弾としてアマチュア時代からうたっていた「イムジン河」を出す予定でいた。レコード会社もプレスをして出荷するばかりだった。ところが、発売直前に諸事情で発売中止となり、かわりに急きょ作られたのが「悲しくてやりきれない」だった。「イムジン河」をめぐっては映画『パッチギ』なども作られているので、知っている人もいるだろう。
それはともかく、会議室に缶詰になって加藤和彦が作った「悲しくてやりきれない」には、サトウハチローが後から歌詞をつけた。一週間ほどして出来上がった歌詞を渡されたとき、加藤は一瞬とまどったが、大先生に文句を言うわけにもいかず、持ち帰ってうたってみると、曲にぴったりなので、さすがと思ったと語っていた。
サトウハチローは、童謡や歌謡曲の作詞家として、1930年代から活躍していた。1960年代には、トークのできる野球好きなタレントとして、ラジオやテレビにもよく登場する芸能界の有名人だった。ぼくは子供だったので、彼の話の内容まではわからなかったが、ざっくばらんな話し方をする髭のおじさんだったのを覚えている。
それに対してフォーク・クルセダーズはアマチュアあがりで、一気に人気者になったとはいえ、世間ではアングラ=アンダーグラウンド扱いの、いまでいえばオルタナティヴ系のアーティストだった。ただし自主制作の実績があったので、当時のカレッジ・フォークの他のグループより、レコード会社に対してものが言える立場にあったと思われる。
だから両者の出会いは、世間的にはミスマッチな冒険に見えたが、実は意外な共通点もあった。それはサトウハチロー自身が歌謡曲の本流にいた人ではなく、オルタナティヴな存在だったからだ。
歌謡曲における彼の代表曲は「夢淡き東京」「リンゴの歌」「長崎の鐘」「うちの女房にゃ髭がある」など、どちらかといえば文芸路線と呼ばれた作品やユーモアのある作品だ。だから立場的にも内容的にも、ラブ・ソング中心の歌謡曲より、60年代から70年代初頭にかけての都会派のシンガー・ソングライターの世界にずっと近かったのだ。
それは「ちいさい秋みつけた」「うれしいひなまつり」「お山の杉の子」「めんこい仔馬」など、彼が作詞した一連の歌曲や童謡についてもあてはまる。ちなみに「ちいさい秋みつけた」は矢野顕子、中谷美紀、安全地帯などにもうたわれている。
異母妹にあたる佐藤愛子の小説『血脈』では、少年時代の彼のことは、素行のよくないはぐれもの扱いされているそうだ。その反抗精神は彼が長じてからの作品にも反映され、結果的に歌謡界ではオルタナティヴな位置に立ち続けた。「悲しくてやりきれない」は、そんな立場の彼の姿勢が、次の世代とめぐり会えた貴重な作品だったわけだ。
【執筆者】北中正和(きたなか・まさかず):音楽評論家。東京音楽大学講師。「ニューミュージック・マガジン」の編集者を経て、世界各地のポピュラー音楽の紹介、評論活動を行っている。著書に『増補・にほんのうた』『Jポップを創ったアルバム』『毎日ワールド・ミュージック』など。