7月3日は、フレンチ・ポップスの代表歌手、ミッシェル・ポルナレフの生誕日である。
1944年に仏人ダンサーの母と、エディット・ピアフ、イヴ・モンタンに楽曲提供していた作曲家の父の間に生まれた。父はユダヤ系ウクライナ人ということで、やはりユダヤ系ロシア人音楽家の父から生まれた仏最大のサブカル・スター、セルジュ・ゲンスブールと比較したくなる。双方ともに、ポップスの枠をはみ出た豊かな音楽性を誇っておりユダヤという音楽に豊潤な血が関与していることは間違いない。
ポルナレフはたった5歳の1949年にパリ音楽院(コンセルバトワール)に入学し英才教育を受ける。16歳年上のゲンスブールよりポルナレフの方が音楽の先輩なのだ。問題は1956年にエルヴィス・プレスリーが衝撃のデビューをすることで、両人とも「深刻な」ショックを受けた。
性的能力を持つ第二次性徴期の始まり12歳頃にロックの洗礼を受けたポルナレフは、そのままクラシックへの興味を失っていく。ジャズエイジ世代であるゲンスブールと違い、ポルナレフは1960年代をロックを意識して過ごした。保険会社に就職するも、すぐ辞めて1964年にヒッピー化。66年に「ノンノン人形」でデビューする。品の良いメロディーとキャッチーなロックリズムがポップ佳作のこの曲は、ロンドンの香りがするが、そのはず。2年後にはレッド・ツェッペリンを結成するジミー・ペイジと、ベースのジョン・ポール・ジョーンズが参加していたのだ。この2人は65~6年当時、キンクスを始め多数のスタジオ・ワークをこなすのみならず、国境を越えてジョニー・アリディなどのフレンチ・ポップスの録音に参加していた。この曲は同年日本ではテイチクより発売。
さらに1971年の日本で「シェリーに口づけ」がメガヒットする。衝撃的な話だが、日本人リスナーには知らない人がいないこの「シェリーに口づけ」はB面だった。1969年にフランスと日本でCBSソニーからひっそりと「追わないで」(後に「渚の想い出」と改題)という曲の裏面として発売されていた。タイトルも「可愛いシェリーのために」だった!
結局のところ「シェリーに口づけ」はフランスでA面リリースがされてない。「男の世界(マンダム)」のような和製ヒットだったのである。このいけてる日本タイトルを付けたのは、後に矢沢永吉や東京ロッカーズを手がける高久光雄、レーベルは、発足したばかりのエピック・ソニーだった。
このテクノ・ポップさえも想起させる異様なほどにキャッチーな名曲は、ポルナレフにとってスピンアウト(独立)したノヴェルティ(変わり種)曲だった。
日本からは何度も「同様のポップ曲を作ってくれ」という願いがいったに違いないが、そもそも本国では眼中になかった。ポルナレフの本領は、日本でも「シェリーに口づけ」をしのぎ最大ヒットとなった「愛の休日」、映画曲としても格別の存在感を放つ「哀しみの終わるとき」そもそも「シェリー~」のA面だった「渚の想い出」だ。圧倒的にフレンチ・バラードなのである。
軽く両手を超えるメガヒットの数々は、ほとんど全てがバラード。情緒がはなはだしく深いそれら楽曲の魅力は、まさにフランスならではのシャンソンの伝統を継いでいる。しかしポルナレフはシャンソン歌手ではなくロック歌手と位置づけられている。
何故だろう?
1970年代前半当時の彼はピアノ・ロックンロール曲が中心、ロック・エンターテイナーだったから。エルトン・ジョン顔負けのステージだった。アルバムにもロック曲が必ず入っていた。
さらにポルナレフの曲は凝っていて、バラードとはいえ予断を許さない展開で、聴き込むほどに病みつきになる。ユダヤ系ウクライナ人作曲家の子の由縁だ。多彩なリズム編曲で一世を風靡したゲンスブールと対照的に、リズムはジットリとバラードばかりだが、ポルナレフは豊潤なメロディーとコード、構成で勝負している。1975年の3度目の来日公演では、バックをイギリスのプログレ・バンド、ウォーリー(Wally)が務めたのは、プログレとも実は遠くないから。シンプルさを真髄とする米国のソングライターとの性格の違いもそこにある。
しかし、彼の人生は順調とはいえなかった。70年代初頭から大スターになって数年の73年には米国ロサンゼルスへ移住、本格的なアメリカ・デビューを目指したものの、スタッフの背信により脱税容疑がかけられノイローゼになる。人生の後半は暗めのイメージで包まれていく。
楽曲発表は断続的に続け、1989年にフランスに帰国、しかし1994年に再びロスに戻るという、揺れに揺れた人生の合間にも、フランスではスターとしての名を留め、日本では定期的にCMやドラマ楽曲として起用され、知名度を貶めなかった。
2007年には、本国フランスでの34年ぶりとなるコンサートツアーを行い、完全復活となった。バラードをメインに歌うポルナレフは、ピエール・マルリーの特異なサングラスによる風貌も手伝い、やっぱりフランス最大のロック・スターなのだ。2010年には、39歳年下のダニエラと男児を設けるというスキャンダルも起こし、健在を十分に印象づけている。
「シェリーに口づけ」のような曲を聴きたいというファンの期待に応える楽曲は他にない。しかし「つけぼくろ( LaMouche)」という「愛の休日」のB面曲は、サザン・ロック編曲の狂気に満ちた勢いで、そんな興味を満たすかも知れない。かくいう私、サエキけんぞう=スシ頭の男も超訳カバーし、客にポルナレフ楽曲の異常さを印象づけている。
【執筆者】サエキけんぞう(さえき・けんぞう):大学在学中に『ハルメンズの近代体操』(1980年)でミュージシャンとしてデビュー。1983年「パール兄弟」を結成し、『未来はパール』で再デビュー。「未来はパール」など約10枚のアルバムを発表。1990年代は作詞家、プロデューサーとして活動の場を広げる。2003年にフランスで「スシ頭の男」でCDデビューし、仏ツアーを開催。2009年、フレンチ・ユニット「サエキけんぞう&クラブ・ジュテーム」を結成しオリジナルアルバム「パリを撃て!」を発表。2010年、デビューバンドであるハルメンズの30周年を記念して、オリジナルアルバム2枚のリマスター復刻に加え、幻の3枚目をイメージした「21世紀さんsingsハルメンズ」(サエキけんぞう&Boogie the マッハモータース)、ボーカロイドにハルメンズを歌わせる「初音ミクsingsハルメンズ」ほか計5作品を同時発表。