1977年に「硝子坂」でデビュー・ヒットを飛ばし、各種新人賞を獲得。その後も「潮騒のメロディー」や「私はピアノ」といったヒット曲を連ねた高田みづえは、様々なバラエティ番組に出演してタレントとしても活躍した。1985年に当時大関だった若嶋津との結婚を機に芸能界を引退して久しいが、2015年にNHK『思い出のメロディー』に出演して30年ぶりに歌を披露したり、2016年にも芸能活動をしている娘・アイリと共に『徹子の部屋』に出演するなど、たまに元気な姿を見せてくれている。6月23日は元歌手で現在は二所ノ関部屋の女将、高田みづえの誕生日である。
鹿児島県に生まれ育った“薩摩おごじょ”の高田みづえ。薩摩おごじょとは、気が強く芯が通って男性をたてるのが上手い、それでいて優しいいい女と言う意味だというから、相撲部屋の女将さんには収まるべくして収まったというべきかもしれない。歌手時代にもバラエティやトーク番組などで芯の強さを感じさせる場面はたびたびあったと記憶する。レギュラー出演した『カックラキン大放送!!』でもそれに見合った役どころを演じていた。デビューのきっかけは1976年、林寛子や石川ひとみらを輩出したフジテレビのオーディション番組『君こそスターだ!』の第18代グランドチャンビオンに輝いたこと。バーニングプロダクションとテイチクレコード(UNIONレーベル)の専属となり、翌1977年の3月25日に「硝子坂」でデビューした。「硝子坂」はそのちょうど一ヶ月前に、木之内みどりの同名のアルバムの一曲として発表されたもので、ほぼ競作ともいえるカヴァー。ラスト・ショウと瀬尾一三がアレンジを手がけた木之内ヴァージョンも情緒があって良いのだが、それとはまったく異なる雰囲気の馬飼野康二編曲による高田ヴァージョンは絶妙にメリハリが効かされ、歌謡曲の魅力に満ち溢れていた。そしてこのデビュー曲のヒットがその後の歌手・高田みづえの方向性に大きな影響を与えることとなる。
続くシングル「だけど・・・」は同じく島武実の作詞、宇崎竜童の作曲によるオリジナルで、3枚目の「ビードロ恋細工」も同コンビの作品。さらに松本隆×都倉俊一による「花しぐれ」「パープル・シャドウ」とヒットを連ね、1977年と1978年は『NHK紅白歌合戦』にも連続出場を果たすが、1979年になるとヒットから少し遠ざかり紅白への出場もストップしてしまう。そこで起死回生の一発となったのが「潮騒のメロディー」である。当初は谷山浩子作詞・作曲の「子守唄を聞かせて」のB面だった曲がじわじわと人気を得て翌1980年にかけてのロングセラーとなる。もともとはフランク・ミルズのピアノ曲だった「愛のオルゴール」に日本語詞を乗せたものをラジオパーソナリティーのさこみちよが歌い、さらに高田みづえがカヴァーしたのだった。「潮騒のメロディー」というタイトルはラジオでさことコンビを組んでいた大沢悠里が名付け親の由。デビュー曲以来の高田のカヴァー路線は実はそのひとつ前のシングルで松山千春をカヴァーした「青春Ⅱ」から始まっており、1980年はサザンオールスターズのカヴァー「私はピアノ」がさらなるヒットとなって同曲で紅白にも復帰を果たした。以降1984年まで5年連続で出場している。
原由子がメインヴォーカルを務めた「私はピアノ」のオリジナル・ヴァージョンは、1980年3月にリリースされたサザンオールスターズのアルバム『タイニイ・バブルス』に収録。高田のシングルはそれから4ヶ月後の発売だった。同じく桑田佳祐の作詞作曲で原由子が歌った曲のカヴァーに、1983年の「そんなヒロシに騙されて」がある。ジューシィ・フルーツとの競作でどちらもヒットしたが、売上げ枚数では高田に軍配が上がった。なおその一つ前のシングル「蒼いパリッシュ」も桑田が提供した楽曲。ファン以外にはあまり知られていないものの、八木正生のアレンジも含めてしっかり桑田節を表現した好盤といえる。カヴァー作品はほかにも、千賀かほる「真夜中のギター」、音つばめ「愛の終りに」、中山丈二「秋冬」、そして谷村新司作曲の「通りすぎた風」も山口百恵の未発表曲のカヴァーだった。作詞の横須賀恵が山口百恵のペンネームであることは有名だろう。アルバムで他人の曲がカヴァーされる機会は多いが、シングルで、しかもこれだけヒットに繋がっている例は珍しい。高田みづえは“カヴァー・ヒットの女王”であった。
【執筆者】鈴木啓之 (すずき・ひろゆき):アーカイヴァー。テレビ番組制作会社を経て、ライター&プロデュース業。主に昭和の音楽、テレビ、映画などについて執筆活動を手がける。著書に『東京レコード散歩』『王様のレコード』『昭和歌謡レコード大全』など。FMおだわら『ラジオ歌謡選抜』(毎週日曜23時~)に出演中。