【大人のMusic Calendar】
GSの全盛時にはザ・タイガースと人気を2分した程のザ・テンプターズであるが、ザ・タイガースのメンバー達に比べると、ザ・テンプターズはリード・ヴォーカルのショーケン(萩原健一)以外のメンバーは一般的にあまり馴染が無いように思える。ドラムスの大口広司はジュリーやショーケンたちとその後ロック・グループのPYGを結成してドラマーとして活躍したが、リーダーの松崎由治(ヴォーカル&リードギター)と、田中俊雄(サイドギター、オルガン)、高久昇(ベース)の3人はグループ解散後、音楽の表舞台から退いているので余計そうなのだろう。
デビュー当初よりメンバー全員、若いのにその演奏能力の高さはほかのGSより高く評価され、レコーディング・レパートリーも当時のGSには珍しくメンバーのオリジナル曲が中心なので、後期の職業作家による作品での数曲を除いて全部メンバーの演奏で録音を行った。そしてそのオリジナルを一手に引き受けて作詞作曲し、独特のギターサウンドを駆使したテンプターズ・サウンドを生み出し、しかもショーケンと並んでソロ・ヴォーカルも担当したのが他ならぬリーダーのヨッチンこと松崎由治だった。本日、4月16日はその松崎由治の誕生日である。
実際デビュー曲の「忘れ得ぬ君」の泣き節のソロ・ヴォーカルはショーケンではなくヨッチンだったし、ザ・テンプターズの全シングル12枚のA面のうち3分の1の4曲はヨッチンのソロである。そして彼らの代表作で最大のヒット・アルバムである『5-1=0/THE TEMPTERS』ではヨッチンが前13曲中10曲を作曲、5曲でソロ・ヴォーカルを担当している。真に松崎由治が居なければザ・テンプターズは存在し得なかったのである。
彼の創る楽曲は「神様お願い!」を始めとてもユニークで、ストーンズ等黒っぽいロック/ブルース・ロックが得意な彼らの音楽性はキープしつつ、ヨッチンならではの東洋的マイナー・スケールを生かした哀愁味あるメロディとどこか郷愁を感じさせるプリミティブでシンプルな歌詞は日本人の心に共感を覚えさせるものであった。しかしヨッチン自身がソロを取った4枚目のシングル「おかあさん」を独特の泣き節で熱唱しているバックで「ロック命」の2歳若いショーケンや大口広司は“やってられねェよ”とばかりステージで白け切っていたと聞く。
松崎由治はグループ・サウンズを代表する名ソングライターの一人だがブルコメの井上忠夫(後の井上大輔)、スパイダースのかまやつひろし、ワイルドワンズの加瀬邦彦のように様々なアーティストに楽曲を提供した訳ではなく、専らテンプの専属作家のような存在だった。
例外としてテンプ時代ヨッチンが唯一他のアーティストの為に提供した曲がザ・スパイダースの「ガラスの聖女」(作詞はなかにし礼)であった。井上堯之が初めてソロを取ったシングル曲で、これはスパイダースのリーダー田辺昭知の発案であった。
そして殆ど話題にならずにテンプ最後のシングル盤となったのが両面ヨッチンの作詞作曲になる「若者よ愛を忘れるなc/w 理由なき反抗」であるが、これは職業作家には絶対に書けない“偉大なるアマチュア作詞作曲家”ならではの名品であり、松崎ワールドの魅力満点の2曲であった。「理由なき反抗」の方はショーケンのヴォーカルの魅力が100%発揮されたニューロック・タッチの快作であり、ヨッチンが歌ったA面の「若者よ…」は一転唱歌の「ふるさと」(ソロ:ショーケン)を挟んで、一寸説教臭くはあるがファンへの別れと感謝と愛のメッセージを込めた歌でヨッチン節ここにありと云う感動の叙情歌だ。他のGSは別としてこんなに充実した作品を自分達のバンド・サウンドで最後まで表現出来たザ・テンプターズがファン以外には注目もされずに解散に追い込まれたとは大変に残念なことである。
ヨッチンはテンプ解散後、東由多加主宰のロック・ミュージカル劇団「東京キッドブラザース」の音楽担当として「南総里見八犬伝」や「THE STORY OF EIGHT DOGS」などの楽曲に携わったが72年に引退し地元の大宮で飲食店経営を始めた。この間71年3月には69年末の東京キッドブラザースの旗揚げ公演から音楽監督を務め「黄金バット」のNYオフ・ブロードウェイ公演を成功させた下田逸郎の事実上初めてのLPアルバム『遺言歌』の録音に1曲だけ参加し、浜口庫之助・下田逸郎共作詞、下田逸郎作曲の「遠歌」という演歌風の歌をソロで歌っている。下田と私が共同プロデュースしたこのアルバムには公式デビュー前のりりィも参加し、声を潰す前の美声を披露しているのだが、ヨッチンが他人のオリジナルを歌ったのはこれが最初で最後のことだろう。そして今の処これが録音された彼の最後の歌声である。
この5年後の1976年になんとヨッチンはホリプロの男性アイドル・グループ、ドルフィンのデビュー曲のA/B面の曲を書いている。「友達から恋人にc/w Oh!ベイビー」(6月1日発売)というポップな楽曲で、彼を起用したのが「いつまでもいつまでも」「星に祈りを」「あなたのすべてを」等の名曲を残したSSWで当時ホリプロの音楽プロデューサーを務めていた佐々木勉であった。この起用の経緯を知りたかったのだが勉さんは早世されて話を伺うことが出来ない。この録音には小生も少し立ち会った覚えがあるがヨッチンも立ち会ったかどうかは記憶にないのだ。残念ながらこのシングルはヒットには至らなかった。そしてこの時以外に彼が曲を誰かに提供したという話は全く聞いていない。ビートたけしや早川義夫などヨッチンの音楽を高く評価しコラボしたい話もあったようだが立ち消えになっている。
私は20年前に一度だけヨッチンに逢ったことがある。98年の暮れだと思うが初めてザ・テンプターズの全アルバムをCD化したのでヨッチンと高久昇に直接CDを届けに行ったのである。残念ながら前年の97年に田中君は白血病で亡くなっていた。確か昇君の家に松崎君が来る手筈を昇君がしてくれて会いに行ったのだ。二人とも5作品のCD化をとても喜んでくれた。そして昇君が食事の支度をしている間にヨッチンと30分ぐらい話したのだが、この時のヨッチンの印象は何か宗教家か哲学者乃至は仙人と話しているような感覚だった。昔の下田逸郎の話し方と共通する部分もあり、雄弁だが夢想的で現実感がないのだ。私の如き凡人には彼ら才人の話は時として理解し難いのだが、想像するにどうやら現在は飲食店をやめて地元に進出した大企業の工場で働いているのだと解釈した。昇君もヨッチンの話には距離を置いている感じがした。二人とも心温まるもてなしをしてくれて嬉しかったが音楽の話をしたかどうか記憶にない。昇君は最近またベースを弾いてライブのバンド活動をしているようだ。大口広司君は2009年に肝臓癌で亡くなっている。いずれにしても松崎由治の音楽はザ・テンプターズの5年間で完全燃焼し見事に完結してしまったように思える。その後の消息は不明だが元気でいれば今日で71歳になるのだ。
追記:リード・ヴォーカルのショーケン(萩原健一)が先月26日にジストで亡くなったと発表された。未だに特効薬がない癌に似た厄介な病気で、2011年から極秘に闘病して来たという。私はザ・テンプターズ解散後何故か彼とは一度も会う機会がなかったのだが、やんちゃで真っ直ぐな性格は其の儘に彼らしい生き方を貫くことが出来て本望だったのではないだろうか。今頃ムッシュや井上堯之と再会出来て喜んでいるに違いない。享年68歳。合掌!
ザ・テンプターズ「忘れ得ぬ君」『5-1=0/THE TEMPTERS』「おかあさん」「若者よ愛を忘れるなc/w理由なき反抗」ザ・スパイダース「ガラスの聖女」下田逸郎『遺言歌』ドルフィン「友達から恋人にc/w Oh!ベイビー」ジャケット撮影協力:鈴木啓之
【著者】本城和治(ほんじょう・まさはる):元フィリップス・レコードプロデューサー。GS最盛期にスパイダース、テンプターズをディレクターとしてレコード制作する一方、フランス・ギャルやウォーカー・ブラザースなどフィリップス/マーキュリーの60'sポップスを日本に根付かせた人物でもある。さらに66年の「バラが咲いた」を始め「また逢う日まで」「メリージェーン」「別れのサンバ」などのヒット曲を立て続けに送り込んだ。