偉業達成・佐々木朗希 “育ての親”2人が貫き続けた育成計画
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話題のアスリートの隠された物語を探る「スポーツアナザーストーリー」。今回は、4月10日、28年ぶりの大偉業・完全試合を達成した千葉ロッテマリーンズ・佐々木朗希投手の「育ての親」2人にまつわるエピソードを紹介する。
『朗希に尽きる。(完全試合は)いずれやると思っていた』
~『デイリースポーツonline』2022年4月10日配信記事 より(井口監督の言葉)
ロッテ・井口監督の言葉通り、プロ3年目の今年(2022年)は春先から何かやってくれそうな気配を醸し出していた佐々木朗希・20歳。4月10日のオリックス戦で、1人のランナーも許さず9回まで投げ抜き、1994年に巨人・槙原寛己が達成して以来、実に28年ぶりとなる「完全試合」を成し遂げました。
日本新記録の「13者連続奪三振」や、日本タイ記録となる「1試合19奪三振」も同時に達成。その記録のすごさからつい見落としてしまいそうですが、このゲームは佐々木にとって「プロ初完封」であり「プロ初完投」の試合でもありました。
佐々木のプロ入り後、ロッテ首脳陣は1年目は1軍に帯同させながら、実戦登板は2軍含め一切させない方針を貫きました。本人はひたすら体づくりに努める日々を過ごし、2年目の昨季、ようやく実戦登板を果たします。
しかし首脳陣は、登板間隔を大きく開けながらイニング数・球数を少しずつ増やしていき、慎重かつ大事に育てる方針を崩しませんでした。そして、プロで1試合投げ切る体を手にした3年目の今季、佐々木はいきなり大偉業を達成したのです。
この「佐々木朗希育成プロジェクト」は、振り返ってみると、アマチュア最速163キロを計測して話題を集めた岩手・大船渡高校時代から徹底されてきた育成方針をロッテが継承したもので、まさに先を見据えた長期計画が実ったと言えます。
2019年、佐々木が高3の夏に行われた全国高校野球選手権・岩手大会決勝。大船渡高校の國保陽平監督は「故障予防のため」という理由で、佐々木の登板回避を選択。結果的に甲子園出場を逃したことで、物議を醸したこともありました。当時の決断について、國保監督はこのように振り返っています。
『プレッシャーがあったんでしょうね。(佐々木を)壊しちゃいけないというプレッシャーが。あの若さで、あの高い身長(190cm)で、滑らかなフォームで、変化球もうまくて、牽制もうまいという才能は、世界の野球の歴史を変えるかもしれない。だからこそ、壊さずに次のステージへつなげなければならないと思っていました』
~『NEWSポストセブン』2020年7月20日配信記事 より
登板を回避したこの決勝戦ばかりが取り上げられがちですが、登板した試合でも球速を抑えて投げることを徹底するなど、佐々木の体・肩を守ることは当時から指導者にとっての至上命題でした。
高3の春、本来の投球スタイルとは程遠い140キロにも満たないストレートとスローカーブを中心に打たせて取る投球をした際、國保監督は次のようにその理由を語っていました。
『4月中旬に骨密度を測定したら、まだ大人の骨ではなかった。まだ球速に耐えうる体ではないということ。本人も理解してくれた』
~『朝日新聞デジタル』2019年7月11日配信記事 より
佐々木もまた國保監督の指導理論を信頼していたからこそ、自らも自発的に体を大事にした練習スタイルに取り組んできました。その1つが、「長い距離を投げるメリットがわからない」とキャッチボールでは遠投をせず、塁間の距離にとどめていたことです。
遠投は速いボールを投げたい投手にとって有効な調整法とされていますが、そんな球界の定説に対しても疑問を抱き、必要ないと思えば排除する。これもまた、國保メソッドの1つでした。
國保陽平監督がこのように「選手の体が第一」というスタンスを徹底するのは、自身が筑波大学時代、動作解析など「スポーツ科学の第一人者」として知られる川村卓准教授に師事した影響が大きい、と言われています。
佐々木朗希にとって幸運だったのは、4球団競合の末に進路が決まった千葉ロッテマリーンズという球団に、同じく川村卓准教授に師事した指導者がいたことです。その人物とは、吉井理人投手コーチです。
象徴的だったのは、プロ入り最初のキャンプにおいて、30~40メートル距離でのキャッチボールを中心に取り組んだこと。高校時代同様、遠投しすぎないトレーニングで体づくりを徹底したのです。このとき、吉井コーチは「なぜ40メートルまでなのか」という記者からの問いに、こんなコメントを返しています。
『いろんな文献を見ていると、40メートルまでは球速が上がったり、投球の質が上がったりする。それを超えると(投げ出しの)角度が変わる。それで良くなることもあるけれど、悪くなって、バラバラになることもある』
~『日本経済新聞』2020年2月18日配信記事 より
吉井コーチは現役引退後、そのまま日本ハムでコーチを5年務めたあと、2014年から筑波大学の大学院に進学。國保陽平監督同様、川村准教授が指導する野球コーチング論研究室に籍を置きました。その進学理由について、吉井コーチはこんな言葉を残しています。
『私も現役時代、コーチから言われたことが全然できず、「本当にいいアドバイスなのか?」と思いながら従うこともありました。スポーツ界全般にそうですが、昔は、コーチと選手は師匠と弟子みたいな関係でしたから。それで、コーチになった当初は「自分がされて嫌だったことはしない」という方針でしたが、本当に選手のためになっているのか不安もあって、コーチングを知るため大学院で勉強しました』
~『HuffPost』2018年12月22日配信記事 より
もちろん、指導方法は千差万別であり、佐々木朗希には当てはまったこの方法がすべて正しいとは言えません。他のやり方が適している選手もいるでしょう。それでも、これほどまでに大きな果実を成し得た「佐々木朗希メソッド」は、今後の野球指導に大きな一石を投じたことも間違いありません。
このように最新理論を学び続ける指導者のもと、計画的に、そして長期スパンで実行された「佐々木朗希育成プロジェクト」がついに結実した日……完全試合を達成した2022年4月10日はある意味、野球指導の歴史が変わった日と言えるかも知れません。