ニッポン放送で毎週木曜日の夜8時からお送りしている『NEXT STAGEへの提言Ⅱ』。
この番組は、日本を代表する各界の著名人が毎週登場。今の日本の礎を築いた著名人たちは、何を考え、何を次世代に伝えるのか。芸能・文化・音楽・スポーツ・経済・政治など、日本を代表する各界の著名人が週替わりで登場し、自身の人生を振り返りながら、「次世代・NEXT STAGE」への提言を発信していく。
1月16日(木)の放送では、バレーボール元日本代表・モントリオールオリンピック金メダリストの白井貴子が登場。1952年7月18日、岡山県岡山市出身。1968年、倉紡倉敷に入社。その後日立に移籍し1976年モントリオールオリンピックでは「東洋の魔女」以来となる金メダルに輝いた。さらに1977年ワールドカップでも金メダル世界選手権と合わせて3冠を達成。現役を引退後、2000年には日本人女性では初となるバレーボールの伝道入りを果たした。
1972年、ミュンヘンオリンピックの決勝で、日本代表はソ連に敗れ、惜しくも銀メダルとなった。白井はその後、一度、現役を退いた。
白井:自分としてはもう、バレーは辞めて別の道を探そうという感じだったんです。別の道よりも、まず辞めたい。まず辞めたい。まず辞めたい…という気持ち。家に帰っても、いろんなチームから追っかけられるし、逃げまくって、逃げまくって。そうこうしてるうちに、当時21歳だったので、働かなければ食べていけないですよね。で、テニスやろうかとか、ゴルフやろうとか、いろいろ考えたんだけど。ある時、5年やったバレーボールをもうちょっとやってみようかなって。それまでは、逃げることばっかり考えてたんですけど。もうちょっとやり残してたな、もうちょっと、こういうふうにやれてたのになっていうのが出てきて。もう一回やってみたいなって思ったんですよ。その時、じゃあどのチームに行くかっていうことをまず考えたんですね。
その後、白井は1973年に復帰し、日立へ入社することになるのだが…。
白井:それで富士フィルムとか三洋とか、いろいろ考えてました。でも、日立は、強いチームなので、私は入れないなぁ、無理だろうなって思っていた。(日立は)若い時にすごく憧れのチームだったんです。私が17歳の時に、紅白試合で日立が来てくれた。そこから日立に練習行くこともあったんです。最初に監督の山田重雄さんが私を見た時、先生が私に言ったのは「白井くん。お母さん若いのかな?」って言うんです。「私、末っ子ですから、いい歳ですよ」と言うと、「妹いる?」って言うから、「私、末っ子なんですよ」って言ったら、(山田監督は)「残念だな」っていうのが最初の言葉だった。それを思い出したんです、ある日突然。その時、あれって私に向けたラブコールだったと、気が付いて。それで、日立にいる岡本真理子さんに電話した。岡本さんは、山田監督から「もし白井から電話かかってきたら、こういうこと言うんだぞ」っていうのをレクチャーされていたらしくて(笑)日立は練習量が少なくて、強くて休みもいっぱいあるぞって。それを岡本さんから聞いて、私は「もうこれは行かなかったら私一生後悔するわ」と思って電話したら山田さんの方から電話がかかってきて。「明日、前橋に来れるか?」って言われて。「わかりました」と言って、軽いノリで行ったんですよ。そしたら、記者の方がいっぱい来られて、そこで、日立に入社みたいな形になって。次の日の新聞に、「日立入社」になってたんですよ。びっくりですよね。
最後に次の世代への提言を伺った。
白井:人の上手なところを見て、真似る。「教え上手」という言葉があるなら、「教わり上手」という言葉も、あるような気がします。教えてくれるという行為は、無償の愛から来ているので、それに対して感謝の気持ちを持つ。その時は素直に感謝できないかもしれないけれど、心のどこかで「ありがとうございます」という気持ちがあれば、もっと上手くいくと思います。自分では気が付かないことってたくさんある。評価は自分がするのではなく、他人がすると思う。
この番組は、radikoのタイムフリー機能で、放送1週間後まで聴くことができる。また、次回2025年1月23日(木)のこの番組は、綾小路きみまろが登場する。