『できる、できない』という壁を作らないこと-峰村史世リオパラリンピック水泳日本代表監督インタビュー

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ニッポンチャレンジドアスリート・峰村史世(リオパラリンピック水泳日本代表監督インタビュー(3)】

このコーナーは毎回ひとりの障がい者アスリート、チャレンジドアスリート、および障がい者アスリートを支える方にスポットをあて、スポーツに対する取り組み、苦労、喜びなどを語ります。

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 峰村史世(みねむらふみよ)
群馬県出身。1997年に青年海外協力隊員としてマレーシアに派遣され、現地で水泳を指導。2004年、アテネパラリンピックではマレーシア代表のコーチを務めた。帰国後、パラリンピック水泳日本代表のコーチに就任。現在は代表監督を務める一方、自身のクラブチームMinemura Para Swim Squad を結成し、パラリンピックを目指す選手たちへの指導も行っている。

-日本に戻って障害者水泳の指導をもっと勉強したい、そう思った峰村は2004年冬に帰国すると日本障害者水泳連盟を訪ねた。
峰村 その前から日本の障がい者水泳連盟にはいろいろ相談をして、勉強させてもらっていたので、戻ってきたと同時に勉強会に参加したりしていました。そのまま選手の指導をしたり、お手伝いをして、代表チームに関わるようになりました。

 -マレーシアから帰国後、パラリンピック日本代表チームのコーチに就任した峰村。最初の目標は2008年の北京パラリンピックだった。当時の日本代表の状況は。
峰村 日本が最初に水泳でメダルをとったのが12年前のアテネのパラリンピックで、日本のトップ選手は河合純一選手、成田真由美選手。
今回成田は復帰しましたが、2大看板選手がいまして、さらに若手は、当時十代の男子の選手がいたんですけれど、その選手たちが北京・ロンドンと中心選手として育ってきて、今回のリオパラリンピックの代表も内定したんですが、その選手はまだトップで活躍しています。

-アテネではマレーシア代表のコーチの立場で日本代表を見ていた峰村。外から見ていてもレベルの高さは実感できたという。
峰村 当時、マレーシアの選手と比べても単純に知識とか技術とか凄いものを持っている選手が多かったです。
まずは私が勉強するというか、いろいろ見ながら指導するようになりました。

-峰村には指導者の道にのめりこんでいくきっかけになった選手がいる。
峰村 日本に戻ってきてから2005年に鈴木孝幸という選手の指導を直接するようになりまして、その選手はどう早く強くするか、追求していく日々が始まったのかと思います。

-鈴木はアテネで4×50mメドレーリレーで銀メダルを獲得したが、峰村の指導の下、北京では50m平泳ぎで金メダルに輝いた。
峰村 鈴木は金メダルを目指して戦って金メダルが取れたので、本当にいろいろなことを挑戦をしながらやってきた成果が出たというところで嬉しかったです。
やってきたことに対して、すごく誇りに思えました。

-峰村には、選手を指導する際、常に心掛けていることがある。
峰村 「まずは『できる、できない』という壁を作らないこと。例えば障害がゆえに動かないことはないんだけど、使ったことがなくて、使い方がわからないというのはよくあるんです。
多分本人はもともと『いや、ここは無理、できないの』っていう意識を持っていますが、『いやいや、そうじゃないよ』と壁を作らないというか。とにかくできることをまずやってみる。
ゼロか100ではなくて、それが30か40ぐらいできるっていう、その辺ぐらいまで(能力を)引っ張り出すんです。
「とにかくチャレンジをする。話をして、うまく引っ張り出すことを一番心掛けていますね」

(4月4日~8日放送分より)

ニッポンチャレンジドアスリート
ニッポン放送 毎週月曜~金曜 13:42~放送中
(月曜~木曜は「土屋礼央 レオなるど」内、金曜は「金曜ブラボー。」内)
番組ホームページでは、今回のインタビューの模様を音声でお聴き頂けます。

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