レイジーの抱える “二重構造”。それは、かつてのGSとの共通項でもあった。 【大人のMusic Calendar】

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1970年代後半、西城秀樹・郷ひろみ・野口五郎…所謂「新・御三家」の爆発的な人気も一段落し、ジャニーズ系もフォーリーブスの後継グループたちが今ひとつという国内男性アイドル不在の隙を突いて、大和撫子たちの心をわし掴みにしたのが、ベイ・シティ・ローラーズ(BCR)、クイーン、キッスといった英米のロック・バンドで、特にBCRはローティーン少女たちに熱狂的に迎え入れられ社会現象までになった。、当然その人気に便乗した “和製BCR”を謳うアイドル・バンドもいくつか登場してきたが、今から39年前の今日1977年7月26日に「ヘイ!アイ・ラヴ・ユー」でデビューしたレイジーもそんなバンドのひとつと世間的には見られていた。BCR風の衣装を纏ったデビュー曲のジャケット写真を見る限りでは、誰もがそう思って不思議ではないだろう。

しかし、彼らは元々グループ名の由来でもあるディープ・パープルの名曲を得意とするハードロック・バンドであり、レコード・デビュー時の平均年齢が16歳という若さにも関わらず、すでに地元の大阪では演奏力の高さで定評のある実力派バンドとして知られていた。そんな彼らがBCR然とした楽曲と衣装を与えられアイドル・ポップ・バンドとして世に送り出されてしまった…。それが、その後のレイジーの歩みに大きな影響を及ぼすことになるのである。

当時、Charやバウワウといった実力派若手ロック・アーティストがアイドル的人気も得て成功を収めていたが、彼らと互角に渡り合える演奏力を持ち、実際にライヴではディープ・パープルのコピーなども披露していたレイジーが、レコードやメディアでの露出ではもっぱらティーン向けアイドルでしかなかったという“二重構造”。それは、ライヴではローリング・ストーンズなやビー・ジーズなど洋楽カヴァーを主体としたステージを展開しながら、レコードでは外部の作詞家・作曲家が書いた歌謡曲を歌っていた、かつてのGS(グループ・サウンズ)にも共通する問題でもあったのだ。

そういえば、レイジーを取り巻く制作陣にはGSのOBたちが多い。所属事務所社長が元アウト・キャストの藤田浩一、プロデューサーが元タイガースの森本太郎、レコード会社の担当ディレクターが元パープル・シャドウズの岡村右といった具合である。前述の“二重構造”がそれと関係があるのかどうかは何とも言えないが…。

コマーシャルなポップ・アイドル路線を強いられる中で、ライヴでのパワフルな演奏、安定したテクニックは評判を呼び、特にギタリストの高崎晃(スージー)の鮮烈なプレイは同時代のプロ・ギタリストたちからも一目置かれていた。79年には彼らを以前から高く評価していた遠藤賢司が会長となって、男性ファン限定の「レイジー男だけのファンクラブ」が結成されるなど、玄人筋からも注目される存在となり、レイジーもそれに応えるかのようにアルバムの中で「フルカウント」「HOTEL」といったオリジナル・ハードロック作品を少しづつではあるが発表。80年には、その集大成ともいうべき本格的ハードロック・アルバム『宇宙船地球号』をリリースしている。

それまでのアイドル然としたアルバム作りから脱却し、メンバーの自作曲や作曲家&ギタリストの水谷公生(元アウト・キャスト~アダムス!)の提供楽曲で構成されたコンセプト・アルバム仕立てのこの作品で、レイジーは不本意なアイドル路線の呪縛から解放され、これからは本来の音楽性を極める活動を展開するものと誰もが思った。しかし、新たなスタートを切った時点で、逆にメンバー間の音楽的相違点が強く浮き出るようになり、1981年5月に解散してしまう。

解散後、ヴォーカルの景山浩宣(ミッシェル)は「影山ヒロノブ」の芸名でソロ・シンガーに転身。アニソンの第一人者として成功を収める。残りの4人のメンバーは、高崎とドラムの樋口宗孝(デイビー/2008年11月30日没)が「LOUDNESS」を結成。世界のメタル・シーンに進出していく。ベースの田中宏之(ファニー/2006年9月1日没)とキーボードの井上俊次(ポッキー)はポップ・ロック・グループ「ネバーランド」を結成する。こうしたメンバーの動向を見ていると、レイジーの抱える “二重構造”がそのまま二手に分散していったようで、とても興味深く思えるのだ。

【執筆者】中村俊夫

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