【ニッポンチャレンジドアスリート】
毎回一人の障がい者アスリート、チャレンジドアスリート、および障がい者アスリートを支える方にスポットをあて、スポーツに対する取り組み、苦労、喜びなどを伺います。
太田渉子(冬季パラリンピックメダリスト)
1989年山形県生まれの27歳。先天性の病気のため、左手の指がない状態で小学生からスキーを始める。2006年16歳でトリノ冬季パラリンピックに出場し、トライアスロンで銅メダルを獲得。2010年のバンクーバー大会でもクロスカントリースキーで銀メダルに輝いた。2014年のソチ大会を最後に引退。昨年からはパラテコンドーに挑戦する傍らパラリンピアンとして障がい者スポーツの普及に努めている。
―クロスカントリーが盛んな山形県尾花沢市で育った太田、雪国という土地柄スキーをするのは当然のことだった。
太田 小学校3年生の時に親友から誘われてクロスカントリースキーのスポーツ少年団に入部しました。そこでスキーの基本的な技術を教わっていくうちに滑れるようになりました。それまでは嫌いだったのですが滑れるようになって、好きになりました。
―2003年、中学生で日本障がい者スキー連盟の指定強化選手となり、翌年には早くもワールドカップに出場した太田。
太田 海外の選手はとても大きくて、彼らが一歩進むところを私は二歩で進まなくてならないくらい、体格の差や力の差がありました。でも片腕1本でするということは同じ。世界を見ることによって、自分にはまだまだ伸びしろがあるんだなということを感じました。
―現在、スキー競技は引退。昨年からパラテコンドーに挑戦し、競技普及に努めている。2005年、太田は世界選手権アメリカ大会に出場し、リレーで銅メダルを獲得。着実に結果を残し、翌2006年のトリノパラリンピックで代表に選ばれた。当時、冬季では史上最年少の16歳。クロスカントリースキーと射撃を組み合わせた競技、バイアスロンで見事銅メダルを獲得した。
太田 はじめてバイアスロンをしたのが2005年のトリノパラリンピックのプレ大会だったので、たった1年でメダルが獲れたということは奇跡に近いと思います。実際、ワールドカップやプレ大会という世界大会に出て、クロカンだけだと体力的にもまだまだ力の差があったので、あと1年でメダルを獲るには何か違うことをしなくてはいけないと思いました。その時にまだバイアスロンは世界的に見てもドングリの背比べみたいな状態でした。この2006年のトリノ大会では射撃を20発中、 20発当てたらスキーの走力のほうで少し劣っていてもメダルは獲れるという思いからバイアスロンに賭けていました。
―16歳の若さでメダリストになった太田。そんな彼女はトリノから半年後、通っていた山形の高校を休学。北欧、フィンランドへの留学を決意した。
太田 トリノの結果を受けてこのまま日本でトレーニングしていたら、4年後の結果はどうなるのだろうと思った時に、たまたま支援していただいている企業さんから海外の高校に行ってトレーニングをするのはどうかという話がありました、若かったからできたのだと思いますが、3月にトリノがあって、6月に現地視察に行って、9月からはもうフィンランドに留学していました。フィンランドの校長先生の自宅でのパーティに招待していただいて、現地の人の温かさや自然の雄大さなど、魅力的なフィンランドの夏に心を奪われました。半分は不安だったはずなのに、現地視察から帰るころにはすっかり留学を決意していました。
―4年間のフィンランド留学を経て挑んだ2010年のバンクーバーパラリンピック。だが、競技初日、本命の種目バイアスロンは11位と不本意な結果に終わった。
太田 大会1週間あるうちの初日にレースが終わってしまい、大会中はいろいろな競技に出たのですが、なかなか気持ちが切り替えられなくて、なおリレーとスプリントの競技がまだ残っていました。バイアスロンのほうに重点を置いていたのでクラシカルなどの練習は現地入りしてからほとんどやっていませんでした。
―ところが、大会最終日のクロスカントリー・スプリントでなんと銀メダルを獲得。2大会連続でのメダルに輝いた。
太田 スキーのワックスのスペシャリストが日本チームに4人ついていました。私に一番合っているワックスを選んでいただいてとても気持ちよくリレー競技に参加できました。
メダルは獲れなかったのですが課題としていたことや自分の役割を果たすことが出来て、次の人にタスキをつなぐことが出来て気持ちが軽くなりました。体も動くようになって、翌日のスプリント競技ではなんとか銀メダルを獲ることが出来ました。でもやはりバイアスロンで良い結果を出せなかったことは心残りになりました。
―バイアスロンのメダルを取り返そうと4年後のソチを目指していた太田。だが、2011年3月、東日本大震災が発生。太田の競技生活が一時、完全にストップしてしまった。
太田 その時、ちょうどロシアの世界選手権に派遣される数日前で、地元で調整をしていた時に被災をして日本チームは選手をロシアに送らないと通告されました。親戚や友達にも被災した人がいたので、本当につらくてスキーをする気持ちになれない時期がありました。
―すっかり気持ちが沈んでいた太田が再び競技への復帰を決断した理由。それは被災者からの一言がきっかけだった。
太田 震災の後に有志の選手で東京から炊き出しで被災地に行きました。メダルを持って行ったら、メダルを見て「ありがたい、力になった」と被災した方たちが喜んでくれました。その時にスキーで元気にできるのであればまたメダルを獲りたいという気持ちになりました。
―ソチではバイアスロンのショートで6位、太田はソチ大会後現役引退を表明する。
太田 ソチの大会が終わってスキー競技の第一線を引退しました。充実した競技生活を送れたのでいったん身を引こうと思いました。
―引退後は障がい者スポーツの普及活動にも積極的に携わった太田。その一環として昨年秋からパラテコンドーの普及に関わり、自ら選手としてもプレーするようになった。
太田 テコンドーでパラリンピックを目指そうということではなくて、何か新しいことをやりたいという軽い気落ちで始めました。2020年のパラリンピックでいろいろな種目があることを知ってもらうために率先してやっています。
―大谷とってこれからの夢、将来の目標とは?
太田 将来的には地方でスキーだけでなく、障がいを持っている方、持っていない方、スポーツが好きな方、あまり好きではない方、いろいろな人とスポーツで交流し、教育するということをしたいです。今は仕事しながらいろいろなことを学んでいます。
(2016/10/17~10/21放送分より)
『ニッポンチャレンジドアスリート』
ニッポン放送 (月)~(金) 13:42~放送中
(月)~(木)は「土屋礼央 レオなるど」内、(金)は「金曜ブラボー。」内)
番組ホームページでは、今回のインタビューの模様を音声でお聴き頂けます。