『LIVE AT WHISKY A GO GO』(ライヴ・アット・ウィスキー・ア・ゴーゴー)は、私が在籍するグループ、ラッツアンドスターが、改名前シャネルズとして活動していた時代に発売したライブ・アルバムである。
この、シャネルズ初のLiveアルバムは、1981年7月11日発売し、同年7月27日にオリコンのアルバム・チャート1位を獲得しました。
1980年2月25日「ランナウェイ」(オリコン4週1位獲得)でデビューしたシャネルズは、『Doo-Wop』という、1950年代半ば、主にアメリカの黒人達から生まれたコーラススタイルを得意とし、当時はあまり知られていなかった日本に、Doo-Wopムーブメント巻き起こしました。
そして1980年5月21日ファーストアルバム『Mr.ブラック』発売。翌1981年3月21日セカンドアルバム『Heart & Soul』を発売しました。デビュー以来2作連続で、オリコンのアルバム・チャート1位を獲得し、シャネルズ3作目のアルバムが、この『LIVE AT WHISKY A GO GO』なのです。
と、ここまでイントロダクション。
この「Whisky a Go Go」という、ロサンゼルス名門のライブ・ハウスは、1967年12月10日、飛行機事故で亡くなった、偉大なるSoul Singer Otis Reddingが『In Person at the Whisky a Go Go』というアルバムを1968年に発売した、我々にとって憧れの場所でした。
そんな、スペシャルなライブ・ハウスに、何故シャネルズは出演できたのでしょうか?
先に説明した通り、1980年にデビューしたシャネルズは、あっという間に人気者になり、ジャクソン5と比較する評論家さえいたほどでした。
気をよくしたレコード会社は、その年我々を、人生初のアメリカ旅行に招待してくれました。その旅は、ロサンゼルス~メンフィス~ニューヨークを巡る旅でした。ある日、マネージャーから旅行の発表がありメンバー大喜び!!更に、その時合わせて発表されたのが「Whisky a Go Go」での飛び入りライブの話しでした。憧れのライブ・ハウスへの出演は二重の喜びとなりました。つまり『LIVE AT WHISKY A GO GO』を発売する前年に、ライブを行ったのがきっかけとなり、翌年ライブ盤発売が決まったのです。
また、その時、たまたま、同じホテルにDJの糸井五郎さんが宿泊していて、ダメ元でお願いしたらWHISKY A GO GOのライブのオープニングMCをしてくれる事になったのです。
「夜更けの音楽ファン今晩は!This is The CHANELS!!」今でも忘れられない思い出になりました。
またその旅行では、南部のメンフィスでは貴重な経験もしました。
シンガーのアル・グリーンが、アーティスト活動を休止し牧師に専念していた時期で、これも運の良い事に、彼の教会で『映画ブルースブラザーズ』でJBが牧師を演じた場面のような、ゴスペルを聴く事ができたのです。アル・グリーンさん、とっても優しくて良い人でした。
更にニューヨークでは、JBがライブ・ハウスに出演するというので、メンバーで観に行ったら、当日キャンセル!目がテンになりました。
流石ジェームス・ブラウン! 彼は端倪すべからざる人物ですよね(笑)しかし残念!!
さて話をロサンゼルスへ戻しアウトロへ・・・
WHISKY A GO GOでのライブの翌日はジャケット撮影。
お店の前で撮影していると、オープンカーが通りかかりました。乗っていたのは、な・な・何とマイケル・ジャクソン。彼は撮影中の我々に、軽く手を振り通り過ぎて行きました。更に日テレの「ザ・トップテン」が、グリフィス天文台辺りから、初の衛星生中継したり、タワーレコードで強盗に遭遇したり、全く以てシャネルズ!もってますよねー!!
そんな訳で、この『LIVE AT WHISKY A GO GO』は、シャネルズにとって、デビューから3作連続のオリコンNO.1アルバムになり、そして最後のオリコンアルバム・チャート1位を獲得した、思い出深いレコードになったのです。
【筆者】佐藤善雄(さとう・よしお):1980年『シャネルズ』のベース・ヴォーカルとしてデビュー。リーダーの鈴木雅之とは小学校からの同級生。1983年に『ラッツ&スター』に改名。デビューに至るまでに数回メンバーチェンジを行うシャネルズの中では、数少ないオリジナルメンバーの一人。 ラッツ&スター活動休止後の現在、 ファイルレコード代表取締役社長にして『ラッツ&スター』、『ゴスペラッツ』のメンバーとしても活動を行っている。 2015年(株)ジャパン・ミュージックエンターテインメント(JME)が直接の経営母体となる芸能スクール「ジャパン・エンターテインメント・アカデミー(JEA)」の校長に就任。