1988年8月15日は、氷室京介「ANGEL」が3週連続の1位を獲得した日である。
1988年の春、BOOWYのラスト・ライブを東京ドームで終えた氷室は、ホッと一息つく間もなくソロ活動の準備を始めた。当時、彼は27歳。日本のロックシーンの頂点にいたBOOWYを惜しげもなく解散させて、次はもっとカッコいいことをやるんだという強い意志と強力なエネルギーを全身から放っていた。
あれから30年近く経つというのに、今もあの春~夏のことはまるで昨日のことのように鮮やかに思い出すことができる。ちょうどその頃、私はそれまで勤めていた洋楽雑誌の編集部を辞めフリーライターになりたてで、氷室のソロ・プロジェクトの仕事に全面的に関わらせてもらっていた。
氷室から、以前から私が親交のあった二人の外国人ミュージシャンの名前を告げられて、彼らにレコーディングに参加してもらえないか打診して欲しいと頼まれたのは、確かまだ少し肌寒い春先のことだったと思う。
交渉の結果、二人とも氷室の音楽に興味を持ってくれたのだが、レコーディング・スケジュールがタイトだったこともあって、最終的に参加が決まったのはアメリカ人ギタリストのチャーリー・セクストンだった。ちなみにチャーリー・セクストンは、甘いルックスとセクシーなヴォーカルで当時、世界中でアイドル的な人気を誇っていたミュージシャンだが、実はギター・テクニックとセンスの良さにはプロの間でも定評があった。彼の実力は、その後、ボブ・ディランに請われてレコーディングやツアーに参加したことからもはっきり判る。
それまで氷室の隣りには、いつも布袋寅泰という最強のギタリストがいた。ソロとしてスタートを切る氷室にとって、布袋に負けないくらい実力があり、なおかつスタイリッシュなギタリストの存在は不可欠だったはずだ。そしてチャーリーは、まさに布袋に勝るとも劣らないギタリストだった。
氷室の最初のソロ・シングル「ANGEL」のレコーディングはLAで行われた。日本から村上ポンタ、吉田健、西平彰ら大物ミュージシャンたちを同行してLAのスタジオに入った氷室は、すでにBOOWY 時代の彼とは違う雰囲気を醸し出していた。今までスタジオに入れば信頼できる仲間がそこにいて、氷室はヴォーカルに集中できた。でもこのレコーディングではプロデュースもしなければいけなかったし、第一、そこで録られる音はすべて氷室京介の名前で世の中に出される。良い評価も悪い評価も、独りで受け止めなければいけない。ましてやこのシングルはBOOWYを卒業した氷室が最初に出す曲だけに、注目の大きさは尋常ではないはずだ。レコーディング・スタジオの中の氷室の表情からは、そのことに対する強い覚悟が感じられた。
チャーリー・セクストンがスタジオにやってきたのは、確かレコーディングが始まってから3日目くらいのことだったと思う。愛車を運転して一人でふらりとスタジオに現れたチャーリーは、そのフレンドリーな性格ですぐに日本人ミュージシャンやスタッフと打ち解けて、レコーディングもあっという間に終わった。
「カッコいい!」。氷室はチャーリーのギターをそう言って絶賛し、とても嬉しそうだった。「ANGEL」のリリースと共に始まるツアーにもチャーリーがギタリストとして参加してくれたら嬉しいといった話も、確かこの時に氷室が直接チャーリーに雑談の中で話したのではなかっただろうか。それともツアーの話が出たのは、レコーディング後にチャーリーや彼のガールフレンドに招かれて一緒に食事をした時だったかもしれない。
7月21日にリリースされた氷室京介のソロ・シングル「ANGEL」は、ファンの期待を裏切らない、まさに氷室ならではアップテンポのナンバーで、発売と同時にオリコンのシングル・チャート1位に輝いた。リリースから4日後に北海道・真駒内陸上競技場でスタートした『KING OF ROCK SHOW~Don’t knock the Rock』ツアーでも、この曲はひと際熱い歓声で迎えられた。
チャーリー・セクストンは約束どおり来日して、この年のツアーの最終日、東京ドームのステージでギターを弾いた。想像どおり、長身のチャーリーのギターは氷室のステージにひと際大きな華を添えた。
その後、氷室は数えきれないほどのツアーを行ったが、この「ANGEL」を歌う前に彼は必ずこう紹介した。「俺が一番、大切にしている曲です」。
【筆者】榎本幸子(えのもと・さちこ):音楽雑誌「ミュージック・ライフ」「ロック・ショウ」などの編集記者を経てフリーエディター&ライターになる。編著として氷室京介ファンジン「KING SWING」、小室哲哉ビジュアルブック「Vis-Age」等、多数。