【大人のMusic Calendar】
ザ・ビートルズが全米ヒット・チャートに遺した前人未到の記録の中でも、とりわけ華々しく語られているのが、シングル・ランキングのトップ5独占であろう。日付は1964年4月4日。一般的に全米チャートとしてもっとも幅広く認識されるビルボード誌Hot 100のデータに拠るものだ。
第1位「キャント・バイ・ミー・ラヴ」(レーベルはキャピトル)、第2位「ツイスト・アンド・シャウト」(トリー、ヴィージェイ系列)、第3位「シー・ラヴズ・ユー」(スワン)、第4位「抱きしめたい」(キャピトル)、そして第5位「プリーズ・プリーズ・ミー」(ヴィージェイ)。参考までにこの週のHot 100には第31位「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」(キャピトル)、第41位「フロム・ミー・トゥ・ユー」(ヴィージェイ)、第46位「ドゥ・ユー・ウォント・トゥ・ノウ・ア・シークレット」(ヴィージェイ)、第58位「オール・マイ・ラヴィング」(キャピトル)、第65位「ユー・キャント・ドゥ・ザット」(キャピトル)、第68位「ロール・オーバー・ベートーヴェン」(キャピトル)、第79位「サンキュー・ガール」(ヴィージェイ)の計12曲が入っていた。
そもそもなぜ,これほどの数の楽曲が一度にチャート・インしたのか? 曲名後に表記したように、アメリカにおいてザ・ビートルズのシングル盤が複数のレーベルから発売されていたことが小さくない要因であろう。1962年10月にイギリスにて公式デビューを果たし、よく63年を通じて本国のマーケットを制圧した彼らながら、大国アメリカでの反応はまだ鈍かった。所属レーベル=パーロフォンを持つEMIは2枚目のシングル「プリーズ・プリーズ・ミー」の時点でアメリカでの系列キャピトル・レコードに発売を要請するが見送られる。そこでEMI音源の販売促進を請け負っていたニューヨークの代理業会社トランスグローバルを通じてアメリカ発売実現のため、他のレーベルへの売り込みがかけられる。バンドのマネージャーだったブライアン・エプスタインの意向もあり、これに応じたシカゴのR&Bレーベル=ヴィージェイが63年2月に「プリーズ・プリーズ・ミー」をアメリカ発売するが売り上げは5,650枚と、広い国土で限られた都市からしか反応は得られなかった。デビュー・アルバム『プリーズ・プリーズ・ミー』も出そうと考えたヴィージェイは、『INTRODUCING ...THE BEATLES』のタイトルで7月末のアメリカ発売を予定する。一方乏しい成果とシングルからの印税未払いなどを理由に、トランスグローバルはヴィージェイに見切りをつけるが、「シー・ラヴズ・ユー」をまたまたキャピトルのデイヴ・デクスターが見送ったため、実力者ディック・クラークにも近いフィラデルフィアのレーベル=スワンが9月に発売する。だが、まだアメリカではラジオが彼らに注目していなかった。63年11月に、「抱きしめたい」を持って渡米したエプスタインの、キャピトルのブラウン・メグスとの交渉によって事態は動く。
様相が本格的に変わるのは、64年1月3日に米NBC-TVの『ザ・ジャック・パー・ショー』で「シー・ラヴズ・ユー」の映像が紹介されたころからで、ついにキャピトルから発売された「抱きしめたい」が1月18日付けで全米第45位に初登場すると、登場3週目、2月1日付けで堂々の第1位を獲得。そしておよそ7,300万人が観たともされる2月9日のCBS-TV『エド・サリヴァン・ショー』への伝説的な出演以降、リヴァプールの4人組は1964年の社会現象となっていく。発売権をめぐってキャピトル/トランスグローバルとの係争に入っていたヴィージェイは、いかなる法的紛争に陥ろうとも出せるレコードを売るだけ売ってしまおうと考えていただろう。当初獲得した音源の6ヶ月間の販売猶予で裁判が決着したこともありシングルが多数流通し、結果としてそれがバンドの加熱する人気に対応し得る状況作りに結びついた。キャピトルだけがザ・ビートルズのシングルを出していたら、これほどの曲数がチャートにひしめくことにはならなかったかもしれないと考えると、ひとつの必然的なドラマだったようにも感じられてならない。
【著者】矢口清治(やぐち・きよはる):ディスク・ジョッキー。1959年群馬生まれ。78年『全米トップ40』への出演をきっかけにラジオ業界入り。これまで『Music Today』、『GOOD MORNING YOKOHAMA』、『MUSIC GUMBO』、『ミュージック・プラザ』、『全米トップ40 THE 80'S』などを担当。またCD『僕たちの洋楽ヒット』の監修などを行なっている。