【大人のMusic Calendar】
1969年3月5日、ザ・タイガースは結成以来最大のピンチに直面する。以前からグループの方向性と所属事務所である渡辺プロダクションの待遇への不満などを理由に、何度となく脱退の意思を事務所に伝えるも、なかなか了承されないことに業を煮やした加橋かつみが、この日、都内のスタジオでニュー・アルバムのレコーディングのリハーサル中に、突然の失踪という強硬手段でザ・タイガースからの脱退を謀ったのである。結局、加橋は翌日、翌々日の仕事の現場にも姿を現さず、渡辺プロは彼の解雇を決断。3月8日にザ・タイガースからの除名を公式発表する。
熱狂的なGSブームにも翳りが見えてきた時期とはいえ、まだまだザ・タイガースは売れっ子。事務所としてはグループの存続を望み、さっそく加橋の後任探しに着手する。タレント研修生だった高岡健二やのちに歌手デビューする田頭信幸などが候補に挙がっていたが、「グループに他人を入れたくない」というザ・タイガース側の意向もあって、サリーこと岸部修三(現・一徳)の実弟シロー(四郎)の名前が浮上。京都時代からメンバーたちとは気心知れた関係の彼ならば適任だろうと事務所側も納得し、新メンバーに迎えることが決定した。グループの分裂というネガティヴなイメージを少しでも払拭するために、「窮地に立たされた兄の応援に弟が駆け付ける」といったメディア向けの兄弟愛ストーリーも演出されたが、これは渡辺プロ副社長・渡辺美佐のアイディアでもあった。
当時シローは渡辺音楽出版の出向社員という待遇でロサンゼルスに滞在し、現地の最新音楽情報を定期的に日本に送る仕事をしていたが、突然の日本からの電話で急遽帰国。3月14日、羽田空港に到着するとすぐに記者会見が開かれ、翌日からは、加橋在籍時に撮影された明治チョコレートのCMポスターの撮り直し、同じく加橋在籍時にレコーディングされた新曲「美しき愛の掟」のコーラスの差し替え、ザ・タイガースのレギュラー出演番組『シャボン玉ホリデー』の収録など、新メンバーとしての仕事がスタートした。その間にはギターの特訓も行なわれている。
気心の知れた身内であることがメンバー選びの最重要ポイントであり、あとは加橋と同じ高音パートが歌えることぐらいしか考慮せず、演奏者としての力量など二の次だったため、とりあえず、なんとかステージでサマになる程度にという極めて初歩的なギターのレッスンだったが、なかなか上達しないままシローは、3月23日に京都会館で開催されたシロー加入後初のザ・タイガース公演に参加。クリームのヒット曲「ホワイト・ルーム」のサビ部分と、大好きなドノヴァンの「ラレーニャ」でソロ・ヴォーカルを披露するものの、他の曲ではコーラスに徹し、ギターはほとんど弾き真似の“エアー・ギター”状態だった。時おりタンバリンに持ち替えるも、タンバリンのシンバル部分はガムテームでミュートされ音が響かないように細工されてあったという。あくまでもザ・タイガースの員数合わせとしての役割だけを求められ、演奏者としては鼻から認められていない屈辱的な対応策と言えるだろう。
それでも、京都会館ぐらいの規模の会場ならばエアー・ギター状態を観客に悟られることも無かったが、ステージと客席の距離が近いジャズ喫茶ではそうはいかなかった。今から49年前の今日1969年4月3日、新生ザ・タイガース初のジャズ喫茶出演となった新宿ACBでのステージで、シローの弾き真似に気付いたファンたちが騒ぎ出し、ヤジが飛ばされたのである。この一件はシローにとってかなりのトラウマとなったようで、「しばらくステージに立つのが苦痛でならなかった」と、後年のインタビューで述懐している。
その後、シローはその“タイガースらしかぬ”キャラクターと持ち前の話術の才で、名MCとして後期ザ・タイガースのステージに無くてはならない存在となっていく。ザ・タイガース解散までギターの腕前は上達しなかったようだが、話術には磨きがかかり解散後も人気司会者として活躍。やがてTVワイドショーのメインキャスターに抜擢され、日本の朝の顔として親しまれていく。まさに芸は身を助ける。49年前の屈辱を見事に乗り越え栄光を勝ち取ったのである。
「嘆き」「素晴しい旅行」『ザ・タイガース物語Vol.2』ジャケット撮影協力:中村俊夫
【著者】中村俊夫(なかむら・としお):1954年東京都生まれ。音楽企画制作者/音楽著述家。駒澤大学経営学部卒。音楽雑誌編集者、レコード・ディレクターを経て、90年代からGS、日本ロック、昭和歌謡等のCD復刻制作監修を多数手がける。共著に『みんなGSが好きだった』(主婦と生活社)、『ミカのチャンス・ミーティング』(宝島社)、『日本ロック大系』(白夜書房)、『歌謡曲だよ、人生は』(シンコー・ミュージック)など。最新著は『エッジィな男 ムッシュかまやつ』(リットーミュージック)。