巨人・山口鉄 入団テストでスカウトに進言した名伯楽の一言
公開: 更新:
話題のアスリートの隠された物語を探る「スポーツアナザーストーリー」。本日は今シーズン限りで引退を表明した、巨人・山口鉄也にまつわるエピソードを取り上げる。
育成選手として巨人に入団し、ジャイアンツ一筋13年。史上初の「9年連続60試合登板」を達成した左腕・山口鉄也が、ついにユニフォームを脱ぐことになりました。今年は春のキャンプ中に左肩を痛め、プロ入りして初めて1軍登板なしに終わった山口鉄。限界を感じ 、引退を決意しました。
横浜商業高校を卒業後、大学に進む予定でしたが、アリゾナ・ダイヤモンドバックスから誘いを受け渡米。傘下のルーキーリーグで月収10万円、毎日ハンバーガーをかじる生活を続けました。しかし、まったく芽が出ず帰国。2005年オフ、「もうこれでダメなら、野球をやめよう」という覚悟で、横浜・楽天の入団テストを受けます。
しかし、どちらも不合格。ダメ元で最後に巨人のテストを受けましたが、たまたまその場にいた小谷正勝・2軍投手コーチ(当時)が、チェンジアップをコースに決めるピッチングを見て「あの子、面白いですよ」とスカウトに進言。育成に定評のある名伯楽の後押しもあって、巨人は育成ドラフトで山口鉄を指名したのです。
年俸はわずか240万円、背番号「102」でプロ野球人生をスタートさせた山口鉄。1年目の06年オフ、尊敬するサウスポー・工藤公康(現ソフトバンク監督)の海外自主トレに同行。プロとしての調整法や、普段の過ごし方も含めてアドバイスを受けたことが飛躍のきっかけとなりました。
翌07年春に支配下登録を勝ち取り、背番号は「99」に。左の中継ぎとして32試合に登板し、翌08年から、工藤がつけていた背番号「47」を継承。この年、67試合に登板11勝2敗、防御率2・32で育成出身では史上初となるセ・リーグ新人王に輝きました。
以後、ブルペンには欠かせない存在となった山口鉄。圧巻だったのは12年、72試合に登板し、防御率は驚異の0・84。マシソン、西村と「勝利の方程式」を組み、日本ハムとの日本シリーズでは胴上げ投手になりました。
「一番印象に残っているのは、試合ではなく、あの年の銀座パレード」
と言っています。原辰徳監督のもと、2度のリーグ3連覇(07年〜09年、12年〜14年)と、2度の日本一に貢献した功績は、計り知れないものがあります。
WBCでも中継ぎでフル回転し、世界一にも貢献。マウンドではいつも表情を変えず、強気のピッチングを披露していましたが、
「本当に毎回、ブルペンでは緊張しているんです」。
リリーフに失敗したときは「勝ち星を消して申し訳ない」と先発に謝罪していたという山口鉄。「オレは陰の存在でいい」と、チームのために投げ続けた鉄腕のことをファンは決して忘れていません。