『日本中が苦しんでいる時に軍人の妻が泣くわけにいかない』湯川れい子が忘れられない母の言葉

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ニッポン放送で毎週木曜日の夜8時からお送りしている『NEXT STAGEへの提言Ⅱ』。

湯川れい子

湯川れい子

この番組は、日本を代表する各界の著名人が毎週登場。今の日本の礎を築いた著名人たちは、何を考え、何を次世代に伝えるのか。芸能・文化・音楽・スポーツ・経済・政治など、日本を代表する各界の著名人が週替わりで登場し、自身の人生を振り返りながら、「次世代・NEXT STAGE」への提言を発信していく。

3月20日(木)は、音楽評論・作詞家の湯川れい子が登場。東京都の出身。1959年ジャズ専門誌「スイングジャーナル」への投稿が評判を呼んでジャズ評論家としてデビュー。

湯川が生まれたのは、1936年、第二次世界大戦の前。家族も戦争の影響を受けることになる。戦後、母と交わした会話が今も忘れられないと言う。

湯川:戦後、母に思いっきり頬を叩かれたことがあるんですが、母は、私が高校だけは何とか高校だけは出す。出してあげるけど、高校卒業したら「結婚してね、結婚してね」って言われて。結婚が女の幸せですからね。そんな時に、高校卒業したら、どうやって母を一生食べさせていけるようになるんだろうと思って。母が持ってくるようなお見合いで、誰かと結婚するのは嫌だと。なんかこう、母は毅然とした誇りを持っている人だったし。母は自分は軍人の妻だから絶対何があったって泣ける立場じゃなかったと。私がよく「夫に死なれ、長男に戦死され、次男も特攻隊のまま行方不明になって。よくお母様、涙もこぼさないでいらっしゃいましたね」って言ったら、「だって日本中が苦しんでいる時に軍人の妻が泣くわけにいかないでしょう」と言われたんですね。それで、「でも私は泣き叫ぶ女になります」と言ったら、母は「私だって泣けるもんだったら泣きたかったわよ」って、初めて涙を大粒の涙が出てきた。それだけ母は頑張ってたんだなってよくわかりますね。

そして、湯川は女優としての道を歩む。その際、家族とある“誓い”を交わしたという。

湯川:母の妹とか、そのご主人とか、おじとか、甥とか、全部呼び集めて、私が女優になると。(女優の)試験を受けて、合格してしまったんだけど、どうしてもんだろうっていう。一応、家族会議を開いてくれまして、兄や姉が、「本当に生涯、その仕事をやりたいんだったら」ということで、そこで誓わされて。許してもらったんですね。

最後に、次の世代への提言を伺った。

湯川:私は、評論家じゃないんです。私は、推し。これまで推し活をやってきたんです。人生を振り返ってみたら、推し活なんです。だから、自分の「大好き」を見つけて欲しい。大好きだったら、諦めないから。辞めないから。だから、あなたの「大好き」を見つけてください。

次回2025年3月27日(木)のこの番組は、川淵三郎が登場する。
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