1983年5月24日は、YMOのアルバム『浮気なぼくら』の発売日。82年の約1年の休眠期間をはさんで、細野晴臣、坂本龍一、高橋幸宏の3人が再び結集した復帰第1作である。81年の『BGM』『テクノデリック』の実験的2作を経て、その反動で生まれたまさかのポップ作品。デビュー時から海外進出のため英詞を歌っていたYMOが日本語で歌うアルバムを出すとは、よもや思わなかったというのが当時のファンの心境だろう。「君に、胸キュン。」を先行シングルとしてリリース。松本隆が提供した詞は「イタリアの映画でも見てるよう」と歌われる通り、カトリーヌ・スパークあたりのラブコメ映画のイメージ。マストロヤンニ伝統の艶笑コメディのノリで、10代娘に中年男性が振り回される様を戯画化したビデオクリップも作られた。
1年の休眠期間中、3人はとにかく歌謡曲に手を貸した。細野は前年のイモ欽トリオ「ハイスクールララバイ」の続編や松田聖子、坂本はわらべ、高橋はピンク・レディーに曲提供。今日の打ち込みによる歌謡曲制作の基礎をこの時期に3人が作ったとも。それまでも沢田研二「TOKIO」、榊原郁恵「ROBOT」などYMOブームに便乗した企画物はあったが、イモ欽や松田聖子のミリオンセラーで、テクノ歌謡はノベルティから時代のマジョリティになった。
実験的だった過去2作で売り上げが半分に落ちたのを反省し、あらかじめ売れることがミッションとして課せられた。散開までの1年で4アルバムのリリースを、後に坂本は回収プロジェクトと語っている。つまり、あらかじめ解散を前提に1年だけ期限付きで復活した、ビジネス総決算がYMO第三期。前年の3人の歌謡曲修行を取り入れ「YMOが歌謡曲をやる」というコンセプトから、復帰作は着手された。ミリオンセラー時代の景気の勢いに押され、とにかくポジティヴなエネルギーが充満した内容に。坂本はこの軽薄路線を、無責任なほどポップな表現を目指した、デビュー時のYMOに戻ったようだと語った。業界やファンの「ライディーン」「テクノポリス」の続編待望の声に、その時代のポップ様式で応えたアルバムが『浮気なぼくら』である。細野によればタイトルは、あくまで「本気ではなくて浮気」。英題“Naughty Boys”を直訳すれば「悪ガキ」で、ポップ化もYMOらしいひねくれ精神が貫かれている。
ヒットすることを前提に化粧品メーカーとのタイアップが用意された「胸キュン」は、シングルチャートで健闘するも残念ながら2位に留まったが、それを阻止した1位の松田聖子「天国のキッス」が細野の曲だったというオチも有名。本作のプロフィールとしてすでに定番のwikiネタだが、細野を軸に考えるとまた別の風景が見えてくる。
それまでプロデューサーは細野晴臣だったが、本作からプロデュース=YMO。もともと細野が海外の大物プロデューサーに倣い、「売れるものを作る」を標榜して結成されたのがYMOだった。シングル「ファイヤークラッカー」を米ダンスチャート上位に送り込むことから歴史は始まる。その目的は2回のワールドツアーで半ば果たされ、前作『テクノデリック』の非商業路線でピリオドを打たれた。いや、打たれるはずだったが、プロデューサーの細野、エグゼクティヴ・プロデューサーの村井邦彦(当時・アルファレコード社長)の解散の意向は、マネジメントの希望で引き留められ、1年間の休眠をはさんで期限付きで再結集したのがYMOの復活だった。
前年、細野は久々のソロアルバム『フィルハーモニー』を発表。「YMO解散まではソロをやらない」と宣言していたから、ソロに着手した当時の心情は推して知るべしだろう。YMO活動の学習から、細野はこのときローランドMC-4というシーケンサーを購入する。「松武さんがやっていることを自分でやらなければ自分の表現にならない」と語り、元喫茶店スペースを改造したLDKスタジオという半プライベート空間で、アトリエのような気分で制作された。デザイン界の寵児だった横尾忠則が、このころから個人のためのドローイングを始めるが、マス表現から個人の創作へと向かっていくアート界の潮流ともダブって映る。
『浮気なぼくら』でも、自曲の打ち込みは細野自身が担当した。MC-8の時代はテンキーでリズム、音階を別々に入力し、エディット不可のためやり直しは最初から。数値化した譜面が必ず必要で、専業のキーパンチャーがスタジオに同席した。鍵盤入力やループが可能になるのはMC-4以降。ミニマルな表現が可能になったことが、『BGM』というアルバムの大きなファクターになる。よく引き合いに出される「キュー」誕生の逸話もこれで説明できようか。MC-8時代は譜面を必要としたため、必ず坂本がプログラマーとの橋渡し役を務めていた。『BGM』録音初日に予定されていた3人の共作計画が、よく知られる坂本のボイコットで反故に。そのとき坂本不在の中で、2人だけの力で「キュー」が完成したことの感動が語らせたエピソードと私は思う。
「第4のメンバー」だったプログラマーの松武秀樹が本作から参加していないのも、MC-4などの新しいテクノロジーの利便性と無縁ではないだろう(実質はLMD-648などの機材提供のみ)。あるいはYMOの所属事務所が、新しく楽器レンタルビジネスを始めた「大人の事情」もあるのかもしれぬ。坂本、高橋の曲は、事務所のアシスタント、藤井丈司がプログラミングを担当。幸宏も使いやすくなったテクノロジーの恩恵を受け、本作ではインスタントなリン・ドラム(リズムマシン)に任せて、ドラムを叩かない曲まである。
82年10月に最初のミーティングが行われ、「キュート」(仮題)というコンセプトはこのとき生まれる。一年ぶりに再会した3人にはまだ緊張関係があったが、ゲストで英国のギタリスト、ビル・ネルソン(元ビ・バップ・デラックス)が招かれ、ビートルズ後期におけるビリー・プレストン役を務めた。ビル参加を提案したのは幸宏で、次作でも三宅裕司らスーパーエキセントリックシアターに出演要請し、『サーヴィス』はミニアルバムではなくコント入りのフルアルバムとして完成。『浮気なぼくら』の雛形になったのも、前年から日本語曲を披露していた幸宏ソロで、第三期を通して高橋幸宏はグループ存続のキーマン役を担った。一方、本作のカラオケ版『浮気なぼくら インストゥルメンタル』、および散開ライヴ用のバックトラック制作は坂本。プロデュース=YMOの下で、幸宏、坂本が果たした役割が大きいことがわかる。
「YMOが歌謡曲をやったアルバム」とよく例えられる本作だが、実際の現場はリン・ドラムをアンプを介して録音するなどの実験手法の連続で、細野いわく「『テクノデリック2』のようなもの」。細野だけ個人的動機から前作のラーガ路線を続行しており、そこだけ抜き出すとまるで細野ソロのよう。坂本&幸宏プロデュースの下、一メンバーとしてのびのびと細野が作曲している様が痛快で、「浮気ならぬ本気」さえ伝わってくる。最終曲「ワイルド・アンビションズ」が、本作を企画アルバムに終わらせない、強いプログレスの意志を感じさせる。
録音後行われたジャケット撮影で3人は、パステルカラーのサマーセーターを着てアイドルを演じて見せた。イタリア映画『浮気なヴァカンス』のように、若い娘に翻弄される自分らを自嘲気味に「オジサン」と呼んだが、今のSMAPに比べても年齢はまだまだ若い。80年代がいかに成熟した時代だったか。ロシア構成主義やドイツ的イディオムの暗くて重い第二期から、マーブルカラー・テクノへ。そうした気分は遠く海の向こうと呼応し、「ポストYMO」は日本ではなくヨーロッパから登場することになる。ベルギーのミカドらの鮮やかでカラフルのデザイン、インスタント録音による爽やかなサウンドは、『浮気なぼくら』の続きのようだった。そして彼らを紹介するために、細野は84年にノンスタンダードレーベルを自ら立ち上げることになるのだ。
『浮気なぼくら』写真提供:ソニー・ミュージックダイレクト
ソニーミュージック YMO公式サイトはこちら>
【執筆者】田中雄二