7月6日は「ジョン・レノンとポール・マッカートニーが出会った日」としてロック史に残る、伝説的な日だ。“ビートルズが始まった日”として、とても重要視されている。
けれども、私がビートルズを聴き始めた71年当時は、〈16歳のジョンと15歳になったばかりのポールが初めて会ったのは、1957年の夏。で、ポールはすぐにジョンの当時のバンド、「ザ・クウォリーメン」に入った…〉という程度の認識だった。それよりも、ロニー・ドネガンに感化されてスキッフルを始めた全英数10万人の少年の中のひとりだったジョンが、〈アメリカのロックンロールをどう受け入れて「ザ・ビートルズ」になっていくバンドを成長させていったか〉を考える方が、私は「ビートルズ物語」の実態をリアルに掴めるのではないかと思っていた。それは中学生のころからで、「じゃあアメリカのロックンロールって何なの?」「英国だけで流行したスキッフルってどんな音楽?」と、実際の音楽スタイルやシーンの全体像、当時の社会状況を把握し、“他者との差異”を掴むことが「ビートルズ研究」だと思っていた。
しかし、私のようにまわりくどく考えるのは少数派のようで、多くの音楽ファンは好きなアーティストの歴史を縦軸で把握したがる。
「〇年〇月、結成」「〇年〇月、〇〇〇〇がグループに加入」「〇年〇月、初ステージ」「〇年〇月、レコード・デビュー」と、日本史の年号を暗記したように憶えたがるのだ。
けれども、「本人」は自分の音楽活動をそういう風には記憶していない。私はロックを聴き始めて8ヶ月ぐらいでエレキ・ギターを買い、その1年後には本格的にバンドを始めたのだが、アマチュア時代初期の子供会の催しでのステージや、盆踊りの櫓の上での演奏が、私のキャリアの原点だとは思っていない。聞かれれば演奏した曲だって答えられるけれど、そんなものは人前に出ることの練習にすぎなかったと思っている。
ビートルズ物語の基本をつくったのは、68年に初版が出たハンター・デイヴィスによるオフィシャルな伝記本『ザ・ビートルズ』だ。
ノンフィクション作家のデイヴィスが音楽関係の本を書いたのはこれが最初で、解散に向けての泥沼化をむかえていないビートルズの歴史は、栄光へのドラマだった。
デイヴィスは、リヴァプールはウールトンのセイント・ピーターズ地区教会、パリッシュ・チャーチで行われた“Garden Fete”を『ザ・ビートルズ』の初版では「56年6月15日」と書いている。彼はのちに調査不足を認めているが、ビートルズの4人から校正段階でそこに赤が入ることもなかったという。
さまざまな研究者ののちの調査によって、クウォリーメンが問題の“Garden Fete”に出演した日は「57年7月6日」と訂正されたが、「その日」を伝説にしたのは、米国のライター、ジム・オドネルが94年に出版した『ジョンとポールが出会った日(The Day John Met Paul)』だった。
分刻みで「その日」を蘇らせたオドネルのドキュメンタリーは実によくできていて、読み物としては最高に面白い。しかし「その場」にいた人間にとっては、まるでドラマに見える“つくりもの”だったようで、当のクウォリーメンがそこに「NO」を示したのだ。
80年代後半に活動を再開し、世界各地のビートルズ祭りに呼ばれるようになったクウォリーメンと、ハンター・デイヴィスが再会したのは88年。キューバで3日間のビートルズ集会が開かれたときだったという。それが縁で双方は連絡を取り合うようになり、デイヴィスはかつて自分が書いた『ザ・ビートルズ』は、クウォリーメンの側から見ると不満だらけのものであったことを悟るのだ。
やがてデイヴィスはクウォリーメンの伝記を書くことを思いつき、00年に『ザ・クオリーメン ジョン・レノンの記憶(The Quarrymen)』として出版されることになった。この本の中でデイヴィスは、オドネルの『ジョンとポールが出会った日』を高く評価しているが、クウォリーメンの証言はオドネルのドキュメンタリーに疑問を投げかけ、真実を再び「記憶という靄の中」に戻していく。
私はこの本を読んで、クウォリーメンへの興味を膨らませた。そんなところに届いたのが、まさかの来日の報だった。
2003年の5月、私の事務所にザ・ハイロウズのマネージャーだと名乗る男から電話があった。当時ハイロウズを率いていた甲本ヒロトと真島昌利は、彼らが敬愛する米英のミュージシャンを招聘して共演するコンサートを定期的に行っている、その第3弾としてザ・クウォリーメンを呼ぶことになった、その際に「和久井さんにオフィシャル・ライターとしてつきあってほしい」と、マーシー(真島)がリクエストしているのだが、それは可能か、という信じられない話だった。
ブルーハーツ~ハイロウズのふたりの活動は知っていたし、トム・ロビンソンやジョナサン・リッチマンとコンサートをやったことには敬意を持っていたから、「それは面白そうだから、ぜひ!」と言うと、マネージャー氏は喜び、東京・大阪で行われるザ・クウォリーメンとザ・ハイロウズの共演『Puttin' On The Style』にべったり付き合い、大阪で独占インタヴューをしてほしい、ということになった。
9月9日に東京・渋谷公会堂、10日に大阪・フェスティバル・ホールで行われた公演を観て、10日の打ち上げが開かれた大阪のイタリアン・レストランで、「歴史の真実に迫る、タブーなしのインタヴュー」が行われた。
このときに来日したクウォリーメンのメンバーは、レン・ギャリー、エリック・グリフィス、ロッド・デイヴィス、コリン・ハントンの4人。ジョンといちばん仲がよく、ビートルズで儲けた金でジョンが起こした事業(スーパーマーケットの経営など)をのちのちまで手伝っていたピート・ショットンと、ロッド・デイヴィスと共に再結成後のクウォリーメンを引っぱっていたジョン・ダフ・ロウはいなかったが、4人とも57年7月6日にウールトンの教会のステージに立っている「歴史の証人」だった。
インタヴューはのっけから、あらぬ方へと走った。4人がバラバラに、勝手なことを言い出したからだ。
「俺たちはみんなジョンの友だちだった」
「そうだ。家に行くといつも眼鏡をかけて、本を読んだり、絵を描いたりしていた内気なジョン・レノンのな」
「ほかには、ピート・ショットン、ジョン・ダフ・ロウがいた。アイヴァン・ヴォーンがいたのは最初で、あいつが7月6日にポールを連れてきたってことになってる」
「うん。俺は会ってないけどな」
「俺もその日は会ってない」
「だいたい白いサマー・コートを着た15歳の少年なんて、当時のリヴァプールにはひとりもいなかった。そんなキザなヤツが現れたら忘れないよ。めちゃくちゃ目立つもん」
「でも、アイヴァンが誰かを連れてきたのを見かけた気はする。夏なのに長いコートを着たヤツがいたのを俺は憶えてるんだ」
「そいつがポールだった可能性はある。けど、俺たちの楽屋はバザーの出品者でごった返していた教会のホールだったろ? ジョンも一緒に、端の方でかたまってた」
「うん。ほかに行き場がなかったからな」
「そこにアイヴァンは来たか?」
「いや、来てないと思う」
「もしアイヴァンがポールを連れてきて、ジョンに紹介したとしても、あの場でギターのチューニングを変えて、〈トウェンティ・フライト・ロック〉を唄うなんてことができたか? 子供がギャーギャー走り回っていてチューニングもままならなかったあの場で」
「それは絶対ない」
「じゃあポールに最初に会ったのはいつだと思う?」
「次の週ぐらいに、ジョンの家に集まったときだったんじゃないかな」
「俺もそう思うんだ」
「うん。そのときにジョンに、バンジョーのチューニングじゃギターは弾けない、みたいなことを言って直してやって、ポールは器用に右利きのギターを弾いたんだ」
「それは憶えてる。歌詞もよく知ってたな」
「で、ジョンがこいつを入れようって言い出した。それは間違いないけど、ポールが入ってからのバンドは、どんどんクウォリーメンじゃなくなっていったよな」
「そうだね。ジョンとポールのバンドになって、ロックンロールをやりたがった」
「俺たちはスキッフル・バンドのつもりだったろ? ポップスをやってプロになろうとは思わなかったから、“そういうつもりじゃない”って言ってみんな辞めたんだ」
「うん。俺なんか就職も決まってたし…」
爺さんたちはこんな風に、「歴史」を否定していったのだ。私がドラムのコリン・ハントンに、「あなたのドラムには The Quarry Men と書かれていますが、Quarrymen はワン・ワードではないんですか?」と訊くと、彼は平然と「Qurry と Men は切れてる」と言う。エリック・グリフィスは「うん」と答えたが、ほかのふたりは「えー!? Quarrymen はワン・ワードだぜ」と反論。「ハンター・デイヴィスの本はそうなってる」とか、「いや、もともとアイツがいいかげんだから、伝説の日をドラマにした本で儲けるヤツが出てきたりするんだ」と、大騒ぎになってしまった。
いちばんまともで記憶も確かなロッド・デイヴィスが、酔っぱらったほかの3人を帰したあと私のところに来てくれて、こう言った。
「ジョンとポールは俺たちが知らない“伝説の人”になっちゃったってことなんだよ。伝説には伝説にふさわしいストーリーが必要で、そこでは真実をふりかざす必要なんてない。みんなの夢を壊しちゃうからね。俺は7月6日に、ジョンとポールはウールトンの教会で会ったんだと思うよ。クウォリーメンのほかのメンバーは、誰もそれを見てなかった。“伝説”はそういうことにしておこうよ」
そして意味深なウィンク。すべてを悟った私は、最後にバンド名の正しい発音を訊いた。 「クオリーメン? それは違うよ。俺たちは“ザ・クウォリーメン”。“ウォ”のところが意外と強い発音なんだ」
【執筆者】和久井光司