参院選翌日の7月11日、相次いでもたらされた訃報。まず示されたのは、優れた姉妹デュオとして一世を風靡したザ・ピーナッツのひとり、伊藤ユミが5月18日に亡くなっていたというニュースだった。享年75。姉の伊藤エミは2012年に既に死去しており、これで伝説の双子デュオはふたりとも雲上の人となってしまった。
感傷に浸る間もなく、今度は、予てから療養中で容態が懸念されていた永六輔が亡くなったとの報が届く。83歳という年齢にしても、放送作家に始まり、作詞家、タレントなどマルチな才能を発揮して活躍した天才の死は惜しまれて余りある。最後のレギュラー番組となったラジオ『六輔七転八倒九十分』が終了した矢先に届いた訃報であった。
ふたりに共通するキーワードは、“テレビの黄金時代”であろう。地元・名古屋で活動していた伊藤姉妹が、渡辺プロダクションにスカウトされて上京し、作曲家・宮川泰の下でレッスンを積んだ後に、日劇のステージで歌手デビューを果たしたのは1959年のこと。間もなくキングレコードから「可愛い花」でレコードデビューする。彼女たちをスターにしたのは、同年にスタートしたフジテレビ『ザ・ヒット・パレード』と、2年後に始まった日本テレビ『シャボン玉ホリデー』の存在が大きかったといえる。「情熱の花」や「悲しき16才」といったカヴァーや、「ふりむかないで」「恋のバカンス」などのオリジナルのヒットを連ねながら、お茶の間の人気者になっていったのは、急成長を遂げていたテレビというメディアの力がなんといっても大きかったのだ。
民放の『シャボン玉ホリデー』より2ヶ月早くスタートしたNHKのヴァラエティ番組『夢であいましょう』の構成作家として頭角を現したのが、永六輔である。番組の音楽を担当していた、ピアニストで作曲家の中村八大と組んで作詞を手がけ、番組内のコーナー“今月のうた”として紹介された「上を向いて歩こう」「遠くへ行きたい」「こんにちは赤ちゃん」などのヒットを世に送り出したのは周知の通り。中でも坂本九によって歌われた「上を向いて歩こう」は「SUKIYAKI」のタイトルで世界的なヒットとなり、63年には全米1位という驚異の記録を成し遂げた。日本人としてはもちろん初めての快挙で、それから半世紀以上経った今でもこの記録は破られていない。ほかにも数多くのヒットを手がけたゴールデンコンビ誕生のきっかけは、ロカビリー・ブーム下で作られた東宝映画『青春を賭けろ』の挿入歌として作られ、水原弘のデビュー曲となった「黒い花びら」のヒットであった。第1回レコード大賞を受賞したこの曲こそ、作詞家・永六輔の原点といえる。
永はザ・ピーナッツにも詞を提供している。62年に公開された東宝の主演映画『私と私』の主題歌となった同名曲がそれで、挿入歌の「幸福のシッポ」と共に、作曲は中村八大。「幸福のシッポ」は『夢であいましょう』で森山加代子が歌ったのが最初だった。さらに、NHKの人気番組『若い季節』の主題歌も永が作詞し、桜井順が作曲を手がけた傑作である。
ちなみにスクリーンで最も知られるザ・ピーナッツの役どころは、怪獣映画『モスラ』に彩りを添えた小美人役であろう。その後も秀でた歌唱力で「ウナ・セラ・ディ東京」や「恋のフーガ」など多くのヒットを放った。デビュー年から16年連続で『NHK紅白歌合戦』に出場を続けたことからも、ザ・ピーナッツがいかに人気と実力を兼ね備えたグループであったかがわかる。彼女たちが75年に惜しまれつつ引退した後、マスコミには一切姿を現さずに美学を貫いた。一方で永六輔は主にタレントとして芸能界で活躍を続け、黒柳徹子をはじめとする黎明期のテレビ界を知る数少ないメンバーのひとりとして特異な存在感を放った。晩年は前立腺癌とパーキンソン病と闘いながらも特にラジオパーソナリティーに注力し、各地での公演活動や、著書も精力的に発表していたのが強く印象に残る。テレビ黄金時代の象徴ともいえる、ザ・ピーナッツの伊藤ユミと、永六輔の訃報がほぼ同時に届いたことはなんとも奇遇な巡り合わせといえよう。我々に多大なる夢を提供してくれた彼らに大いなる感謝を捧げつつ、天国のエンターテイメント界がますます賑やかになってゆくことを想う。
【執筆者】鈴木啓之
写真提供:産経新聞社