地図を眺めるのが好きだった頃がある。ニューオーリンズやメンフィスなど一般的にも馴染みのある街から、アリゾナ州ウィンズローやイリノイ州カンカキー、あるいは、ヴァイン・ストリートにブリーカー・ストリートまで、地図で探してみる。歌の中に出てくる街だったり、好きなミュージシャン所縁の場所だったりといろいろあるが、いずれも、音楽を通じて知った場所だ。
その中には、いくら探しても手元の地図には記されていないのもあった。それでも、出来る限り地図の中を探し、記しをつけていくうちに、市販の殺風景な地図とは全く異なる、ぼくだけの地図が出来上がっていく。それが、楽しかった。
カナダのアルバータ州フォートマクロウドも、そうやって知った街だ。アメリカとの国境から少し北、カナディアン・ロッキーのふもとに位置する小さな街、これも手元の地図になく、インターネットでようやく探せるようになった。1943年11月7日、その街で、ジョニ・ミッチェルは生まれている。
その後、サスカトゥーンやトロントといったカナダ国内を経てニューヨークへ。そこで「チェルシーの朝」を書き、カリフォルニアに移って、「レディズ・オブ・ザ・キャニオン」の一人になった。彼女の歌を聴いていると、そうやって頭の中で地図が描かれていく。殊に、カナダの広々とした景色が、歌と一緒に目の前に運ばれてくる。彼女のその時々の感情たちが色彩やタッチを探り当て、それを彼女はキャンバスに筆で刷くように、歌を描くのだ。
それにしても、ジョニ・ミッチェルほど、多くの女性シンガーたちにインスピレーションをもたらした人もいない。「男性と肩を並べるようになった最初の女性」と評したのは、リンダ・ロンシュタットだ。ソングライター、ギタリスト、そして言葉の使い手としての彼女の非凡な才能を讃えての発言だった。時代の歌姫として、リンダの後を引き継いだマドンナも、歌詞で影響を与えてくれたのがジョニだったと認める。
もちろん、男たちも例外ではない。彼女の歌を初めて聴いたとき、デヴィッド・クロスビーは、ミュージシャンとしての自信を失ったといい、彼女のデビュー・アルバムのプロデュースをかってでた。グレアム・ナッシュは恋におち、一緒に暮らし、その中から「アワーハウス」を作った。
レッド・ツェッペリンは、ジョニ・ミッチェルを思い浮かべて、「ゴーイング・トゥ・カリフォルニア」を作った。俄然、身近な狭い話になって申し訳ないが、『バラにおくる』が発売されたとき、ぼくを含めてまわりの男どもは、広げたジャケットをしげしげと眺めながら、海になりたい、波になりたい、と呟きあったものだ。
プリンスが、熱狂的な彼女のファンだったことは有名だろう。彼女がミネソタでライヴをやったとき、10代のプリンスが最前列を陣取り、ファンレターを届けたという。後に、彼は、圧巻の「ア・ケイス・オブ・ユー」で彼女への敬意を表したが、ウェイトレスとの夜のひとときを描いた歌「ドロシー・パーカーのバラッド」の中で、ラジオから流れる彼女の「ヘルプ・ミー」を効果的に使った。もちろん、プリンス急逝の際には、彼女も追悼のコメントを忘れなかった。
歌(「強きものは愛」)の中に、Miss November(ミス11月)という言葉で彼女を登場させたのは、ジェイムス・テイラーだ。そう言えば、そろそろ、街にクリスマス・ソングがあふれる季節がやってくる。ということはつまり、そのジェイムスを含め沢山の人が歌う「リヴァー」の季節がやってくるということだ。クリスマスの準備で賑わう周囲を横目に、雪の降らないカリフォルニアで故郷カナダを思いながら、一人さびしく失った愛を綴るクリスマス・ソング、もちろん、書いたのはジョニ・ミッチェルだった。
【執筆者】天辰保文