50年前の今日1967/3/8はザ・タイガースが2ndシングル「シーサイド・バウンド」をレコーディングした日【大人のMusic Calendar】

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シーサイド・バウンド,ザ・タイガース

1967年2月5日、シングル「僕のマリー」(B面は「こっちを向いて」)でレコード・デビューしたザ・タイガース。後にGSと呼ばれる和製ビート・グループたちのトップに君臨し、GSブームの起爆剤となった彼らも、デビュー後まもなくはほとんど無名バンドに近い状態だった (関西ではファニーズ時代からのファンが数多く存在していたが)。仕事と言えば新宿ACBなどジャズ喫茶への出演ぐらいで、仕事の日は合宿生活を送っていた世田谷区烏山のアパートから仕事先まで“電車通勤”をしていた。早くも数人の追っかけファンも誕生しており、それは次々に増殖を続け、いつしかアパートから徒歩で駅に向かう5人の後を追うファンの数は、まるで大名行列のような長さになっていったという。

そんな中、渡辺プロダクションはタイガースの2ndシングルの準備を始める。作家陣は前作同様、タイガース楽曲のコンセプトメイカーでもある橋本淳(作詞)とすぎやまこういち(作曲)のコンビ。「僕のマリー」が南フランスの港町マルセイユをイメージした(橋本の証言)バラードだったのに対し、今回は夏場に向けた作品ということで、同じ南フランスでもリゾート地として名高いニース、カンヌをイメージした明るいリズム楽曲というコンセプトが決定し、さっそく制作がスタートする。

こうして橋本&すぎやまコンビが書き上げてきたのが、「シーサイド・バウンド」と「白いブーツの女の子」の2曲で、前者は沖縄音階を意識した(すぎやまの証言)シンプルな4コード作品。後者は「海」「太陽」「渚」といった言葉は一切出てこないものの、サビのメロディがザ・ドリフターズの「Under The Boardwalk」(邦題「渚のボードウォーク」)を彷彿させ、なんとなく夏っぽさを醸し出すポップ・ナンバーだった。先ず3月2日にリハを兼ねた「シーサイド・バウンド」の予備レコーディングが行なわれ、その6日後に両曲の本番録りとなった。今からちょうど50年前の今日、1967年3月8日のことである。

最終的に2ndシングルのA面には「シーサイド・バウンド」が選ばれ、3月9日にレコーディングされた「星のプリンス」(橋本&すぎやまコンビ作品)とのカップリングで、1967年5月5日にリリース。「白いブーツの女の子」はお蔵入りとなり、タイガース解散後の1974年11月21日にリリースされたベスト・アルバム『ザ・タイガース物語Vol.1』『同Vol.2』の予約購入特典として制作された非売品4曲入EP『THE TIGERS STORY』に収録されるまで未発表のままだった。90年には10枚組CDボックス『ザ・タイガース・パーフェクトCD-BOX』で初CD化。その後“Q盤”シリーズCD『レジェンド・オブ・ザ・タイガース』にも収録され、誰でもが入手しやすくなっている。

茅ヶ崎海岸の浜辺で元気いっぱいにジャンプするタイガースの姿を撮ったジャケットが示唆しているように、「シーサイド・バウンド」には「バウンド」と名付けられたダンス・ステップがセットになっていた。振り付けは、後にピンク・レディや山本リンダを手がけたことで知られる土居甫。当時は渡辺プロダクション制作番組『シャボン玉ホリデー』(日本テレビ系)などでメキメキ頭角を現してきた新進振付師だった。間奏時にフロントの4人が揃って左右に飛び跳ねるという、およそギター演奏を一切無視したようなステップは、当事者たちには不評だったらしいが、この独創的な振り付けとラテン楽器であるティンバレスを叩きながら歌うジュリーの姿は、渡辺プロダクションのお家芸とも言うべきテレビに重点を置いた宣伝戦略によって、瞬く間に全国のお茶の間に拡散。「シーサイド・バウンド」は50万枚を超えるヒットとなり、新人タイガースはGSの先達であるブルー・コメッツ、スパイダースの人気に肉迫するほどの大ブレイクを果たしたのである。

【執筆者】中村俊夫(なかむら・としお):1954年東京都生まれ。音楽企画制作者/音楽著述家。駒澤大学経営学部卒。音楽雑誌編集者、レコード・ディレクターを経て、90年代からGS、日本ロック、昭和歌謡等のCD復刻制作監修を多数手がける。共著に『みんなGSが好きだった』(主婦と生活社)、『ミカのチャンス・ミーティング』(宝島社)、『日本ロック大系』(白夜書房)、『歌謡曲だよ、人生は』(シンコー・ミュージック)など。

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