7/10はストーンズの傑作「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」日本盤シングルの発売日(1968年)である。
「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」はローリング・ストーンズの沢山のヒット作の中でも、珠玉の名作である。来年、この曲が誕生して50年になろうとしているが、現在でもライヴ・コンサートでは定番曲であり、観客がもっとも盛り上がる瞬間である。それだけ世界的に広く知れ渡り、愛されているストーンズの看板曲と言えよう。長く支持されるこの曲の人気の秘密はなんだろうか?
イギリスでは1968年5月25日に英国デッカよりシングル盤A面として発売された。B面は「チャイルド・オブ・ザ・ムーン」である(ブライアンはこちらをA面にしたかったようだ)。当時、英国、米国、どちらのヒット・チャートでも発売早々ナンバーワンに輝き、10週間以上もチャートに留まり、結果的にミリオンセラーとなった。特筆すべきは、アメリカ人のジミー・ミラーが初めてプロデュースした楽曲で、この後続く「第二期黄金期」の始まりとも言える記念碑的作品である。だが、この頃、ストーンズの私生活においては多難な時期で、たびたびの官憲による麻薬捜査、逮捕、そして裁判が繰り返され、沢山の罰金を支払わなければならなかった。さらにバンドの創設者ブライアン・ジョーンズとの音楽的齟齬が生じ、それは次第に大きくなっていった。この曲の背景には、その困難な状況が見え隠れしているように感じられる。
前年の'67年からざっと出来事を俯瞰して見る。
2月12日、武装した警官15人(麻薬捜査班)がサセックス州のキースの自宅「レッドランズ」を急襲、突然家宅捜索に入った。この出来事は予想外に社会的影響が大きく解決まで長引いた。3月「ルビー・チューズデイ」がアメリカで大ヒット。
3月6日「レッドランズ事件」のストレスから、ブライアン、キース、アニタ・パレンバーグの3人は陸路モロッコへ慰安旅行にでかけるが、途中ブライアンがひどい喘息発作に襲われ、フランスの病院に緊急入院。キースとアニタはそのままモロッコへ向う(二人は恋愛関係に進展。残酷な略奪愛である)。此の時ミックは先に飛行機でモロッコ入りしていた。ブライアンはソロ活動として映画『デグリー・オブ・マーダー』音楽制作のため、一旦ロンドンに戻り、その後、モロッコへひとり飛行機で向い皆と合流し、モロッコ民族音楽を録音(ジャジューカ録音)。
3月16日、ブライアンをひとりモロッコ残し、ミック、キース、マリアンヌ、アニタは無断でロンドンに帰る(モロッコ置き去り事件)。
3月18日、ミックとキースは麻薬不法所持で告訴される(レッドランズ事件告訴)。
3月25日、3週間に渡る欧州ツアー開始。
4月11日、パリ・オランピア公演で5000人以上のファンが暴動を起こす。
4月13日ワルシャワ・ショーでファン3000人暴動勃発。
4月17日アテネでツアー終了。
5月10日、ミックとキース、サセックス州チチェスター裁判所にて、100ポンドの保釈金支払う(レッドランズ事件公判)。同日、ブライアン、サウス・ケンジントンの自宅で麻薬不法所持で逮捕。その後、250ポンドで保釈。
6月下旬、ミックはアンフェタミン所持で有罪判決。ブリクストン刑務所に勾留される。キースは自宅での麻薬不法所持嫌疑で有罪となって勾留。
6月30日、ミックとキース、それぞれ7000ポンドの保釈金で釈放。
7月6日、ブライアン・ジョーンズは逮捕のストレスで入院。
7月7日、ブライアン抜きで、オリンピック・スタジオにてセッション開始(『ゼア・サタニック・マジェスティーズ・リクエスト』制作)。7月31日、ミックに条件付き無罪。キースの判決は嫌疑不十分で棄却された(温情判決)。
8月~9月、頻繁にオリンピック・スタジオでレコーディング・セッション。
9月29日、デビュー当時からの仲間であるアンドリュー・ルーグ・オールダムと険悪になり、契約解除に至る。(主な原因はアンドリューの薬物中毒とぴんはね行動だった。)
10月30日、今度はブライアンが大麻不法所持で有罪が確定。9ヶ月の実刑判決、即日控訴。翌日、750ポンドの保釈金で仮釈放。
11月1日、ストーンズは「ブライアン抜きの4人で活動を続ける」と発表。
12月8日、アルバム『サタニック・マジェスティーズ』英国で発売。12月12日、ブライアンの判決。3年間の保護観察処分と1000ポンドの罰金刑。
12月14日、ブライアン入院。
このように1967年は多難な、混乱した事件の連続であるにもかかわらず、アルバム制作、欧州ツアーなどバンド活動を継続させたが、明らかにブライアン・ジョーンズの体調は悪化し、彼の気持ちはバンドから少しずつ離反していったようだ。このようなバンドの内部的心理状況は、そのまま作品に投影されていると言っていいだろう。その代表的な作品が「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」ではないか。
この曲のメインリフは、ビル・ワイマンが作ったと主張しているのは有名な話だ。それは1968年3月でのオリンピック・スタジオ・セッションで、ミックとキースが遅刻して不在の時に、ビルが何とはなしにピアノで演奏したフレーズだと言う。そこにはチャーリーとブライアン、そしてビルがいたようだ。それをジミー・ミラーが録音して、ミックとキースに聞かせた。それに触発された事は事実であるようだ。だがしかし、この曲の核心で重要な詩的言語世界は、ミック・ジャガーその人のものである。特に、キリスト教的寓話性、そして複雑なメタファーを駆使して、言葉の音韻を踏んでいる所が見事である。
いわゆるAメロで語られる悲惨な自己説明「俺は激しい嵐の中で生まれ、豪雨の中で泣き叫んだ」で始まる。これは第二次大戦のロンドン空襲のさなかに生まれたミック自身のメタファーだと思われる。同時に最後に3番のAメロで「頭にスパイクを打ち込まれた」というのは、明らかにキリストが十字架に架けられた時の「イバラの冠」を暗喩している。同時に「スケープゴート」にされた官憲や政治的圧力に対する当時の怨念のようにも聞こえる。主にAメロ部分は、悲惨な自伝的比喩的内容である。そして問題はサビの部分だ。「But It's All right?」云々の部分である。「過ぎた事なんて、もう今はどうでもいいのさ」という過去の全否定なのである。「俺はぴっかぴかのぶっとびジャックなんだ。すべては雲散霧消、消えてなくなれ!嫌な事は忘れろ!(ジャカジャ~ン)」というある意味シュールな歌詞構成になっている。そしてなによりシャウトする歌詞とギターサウンドが呼応しているところが、実にかっこいい。(ストーンズ・サウンドは「ジャカジャ~ン」を多用する)
キースの発言によると「ジャックと言うのはレッドランズの庭師の名前」だと言う。「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」というのは、雷鳴轟く豪雨の日に、室内でミックとキースがいっしょに創作活動していた時、偶然窓の外で庭師のジャックが仕事をしながら雷鳴に驚き騒いだエピソードにインスパイアされて出来上がったらしい。それにしてもAメロ歌詞全体に漂う陰鬱で自暴自棄的な印象と、その後に続くサビの展開が、単純にして普遍的で素晴らしい。
ところがサウンド的にはかなり緻密で複雑なギターサウンドで、作られている。複数のギターが重層的に録音されており、しかもキースによればメインリフはオープン・チューニングEのアコギで演奏されフィリップス小型カセットに録音され、それをアンプで増幅再生していると言う(ストリート・ファイティング・マンと同じ手法)。さらにレギュラー・チューニングのギターで演奏し重ねているという。まるでゴッホの油彩画のようである。しかもブンブン唸るベースはキースが演奏し、ビル・ワイマンはオルガン、バックボーカルにはプロデューサーのジミー・ミラーも参加しているようだ。マラカスはミック・ジャガー。このサウンド構成や制作時期から、アルバム『ベガーズ・バンケット』向けセッションからの産物と言われているが、個人的には前作『サタニック・マジェスティーズ』の制作感覚に酷似していると思われる。特にエンディング部分は、サイケな印象がする。それは新たにプロデューサーとして迎えたジミー・ミラーとの試行的、実験的なセッションだったのかもしれない。
このとき、プロモ・フィルム制作が為された。モノクロ版とカラー版の2種類がある。サウンド的にも映像的にも異なった作品である。監督はマイケル・リンゼイ・ホッグで、映像カルチャーに関心の強いミック・ジャガーを刺激した興味深い作品である。こういう視覚的な感覚は、デビッド・ベイリーの撮影したシングル・ジャケットにも表現されている。
今になって言える事だが、この曲は、大きくスタジオ版とライヴ・ヴァージョンにわけられる。さらにライヴ・ヴァージョンでは数10種類以上のパターンがある。大きな差異は、スタジオ版にある「前奏部分」がライヴにはない。また、ライヴ・ヴァージョンは、ブライアン、ミック・テイラー、ロニー・ウッドと異なっており、骨格の大筋は同じでも、最近では「グルーヴ感」がまるで異なってきている。キースが言う所の「楽曲は時間の経過と共に、成長するものだ」という典型例だろうか。
ドイツには「ジャンピング・ジャック・フラッシュ」だけを長年にわたって研究・収集しているマニアもいるほどの楽曲なのである。
【執筆者】池田祐司(いけだ・ゆうじ):1953年2月10日生まれ。北海道出身。1973年日本公演中止により、9月ロンドンのウエンブリー・アリーナでストーンズ公演を初体感。ファンクラブ活動に参加。爾来273回の公演を体験。一方、漁業経営に従事し数年前退職後、文筆業に転職。