【大人のMusic Calendar】
1994年12月8日アントニオ・カルロス・ジョビンはニューヨークの病院で67年の生涯を閉じた。
思いでの中では、アントニオ・カルロス・ジョビン(以下ジョビン)の死と大貫妙子(以下ター坊)が分かちがたく結びついている。以下ジョビンと以下ター坊の間にはどこにも接点がない。彼女がジョビンの曲を歌ったことはないし、もちろん会ったことも挨拶をかわしたこともない。そんな交わるはずのない二本の線が交差する瞬間があったという事実は誰も知らない。ター坊には知らせていなかったし、ジョビンもオスカー・カストロ・ネヴィス(以下オスカー)ももうこの世にはいない。
1994年10月、僕はター坊のアルバム『チャオ』のレコーディングでリオ・デ・ジャネイロに滞在していた。リオで合流することになっていたオスカーは同時期に二つのプロジェクトを抱えていた。『チャオ』ではアレンジを、もう一はジョビンのボサ・ノヴァ・プロジェクトのプロデュースだった。ところで、プロデューサーとしてもアレンジャーとしてもワールド・ファースト・クラスのオスカーだけど、たまに信じられないようなポカをやらかす。
チャオ・プロジェクトはスタジオもミュージシャンのブッキングも2か月前に済ませていた。それはオスカーも承知していたはずで、我々のレコーディング終了後すぐにジョビンのプロジェクトが始まる手はずになっていた。
僕らがリオに発った日のことだ、NRT、LAX、GIGと各空港で、僕の名前のアナウンスが何度もあった。まるで国際手配、何事だ! それぞれのカウンターに行ってはみたけれど要領を得ず、結局何もわからぬままにリオのホテルにチェックインした。そして翌朝LAからの便で着いたオスカーから「一生のお願い」とばかりに懇願されることになった。話を聞くと、なんとオスカーときたら、ジョビン・プロジェクトのスタジオ・ブッキングを忘れていたという。それを僕に伝えたいがための空港への緊急連絡だったのだ。やれやれ、余裕を持って押さえていたスタジオを三日間オスカーに譲ることにした。
「ミヤタ、アミーゴありがとう。タエコと一緒にトム(ジョビン)のスタジオに遊びに来るよね? 実は彼にタエコのテープを聴かせたんだよ。とても気に入っていた。なにか一緒にできると思う、きっとね。タエコの歌にトムのピアノなんてマラヴィリョーゾだよ」
オスカーは社交辞令を言うようなタイプではないので、半信半疑ながら心がときめいた。
このいきさつをター坊は知らない。実現するかどうか、夢のような話だし、その時になってアッと驚かせたかったので内緒にしておいたから。
ジョビンのレコーディング日の早朝、話があるとオスカーから電話があった。ロビーに降りていくといつもの笑顔が消え失せたオスカーが、まるでこの世の終わりかと思えるほどに打ちひしがれた様子で座っていた。
「昨日の晩にトムが倒れた。ハートアタックだ。とてもシリアスな状態らしい」、消え入りそうな小さな声で言った。僕はなにをどう言ったらいいのかわからず黙り込む。目の前にあった淡いときめきが一瞬のうちに消え去っていった。ジョビンのピアノで歌うター坊なんて、どんなに素晴らしい出来になっただろうか。聴いてみたかった!
その晩オスカーが食事に誘ってくれた。ことあるごとにジョビンに連れてきてもらったというイパネマのイタリア料理のレストランだった。ショックがあまりにも大きすぎたからだろうか、いつにもまして饒舌になったオスカーは食事のあいだ中とめどもなくジョビンとの思い出を語り続けた。あの時はこうだった、その時はこうだった、トムはこんなことを言った・・・・。
オスカーはデザートのアイスクリームを食べながら、「このままリオにいたらトムは死んでしまうと思う。今かかっている医者はマジナイ師みたいなものなんだよ。僕の兄貴にニューヨークの病院を手配させたんだけど、トムは行ってくれるだろうか。ここにいてもどうしようもない。トムは死んでしまう」、と悲痛な面もちで言ったまま彼は黙りこんでしまった。
「ジョビン斃れる」のニュースは、ほんの数時間でリオの音楽関係者全員が知ることとなったようだ。リオの友人たちもことごとくジョビンの病状を心配し、すぐにニューヨークに行くべきだと噂しあっていた。
数日後、ジョビンは家族に付き添われて、NYの病院に転院した。誰が説得したのかはわからない。とりあえずネヴィス兄弟の伯米に渡るドクター人脈が功を奏したかっこうとなった、一旦は・・・
チャオのレコーディングが終わり、オスカーはLAに戻らずNYへと飛び立った。
日本に戻った僕にオスカーからの電話があったのは日本時間の12月9日の夜だった。
「僕らのトムが逝ってしまった」彼は泣いていた。僕は言うべき言葉が見つからない。黙っていても電話口にいるオスカーの気配だけで、彼の深い悲しみがひしひしと伝わってきた。しばらくして、お互いに「チャオ、アブラッソ」と言って電話を切った。
その晩、僕はジョアン(ジルベルト)のシェガ・ヂ・サウダーヂを朝まで何度も聴いた。眠れなかった。
オスカーとジョビンが計画していたプロジェクトのことを書いておかねばならない。
1994年4月、創立50周年を迎えたヴァーヴ・レコードはNYのカーネギー・ホールで記念コンサートを開いた。
そこにジョビンはVIPとして招かれ、コンサートの中盤になって、ボサ・ノヴァ、ゲッツ/ジルベルトの紹介に続いてジョビンが登壇し、「イパネマの娘」をピアノで弾き語り、「ハウ・インセンシティヴ」をパット・メセニーと、「デサフィナード」をパットとジョー・ヘンダーソンで演奏した。(動画1:04:21~1:19:00)
本番前日の記者会見で、例の問題が蒸しかえされた。例の問題とはボサ・ノヴァとジャズの関係のことだ。「ボサ・ノヴァはブラジルのジャズだ。ボサ・ノヴァはジャズの影響を受けて生まれた」、とジョビンに言わせたいアメリカ側の質問者たちと、「僕らはただ僕らの音楽をやっていただけだ。アメリカのジャズ・ミュージシャンはボサ・ノヴァをアメリカ風に演奏をしただけだ」とあくまでも言い続けたジョビンは、平行線を保ったまま会見は一種異様な態をなしていったらしい。この様子は、「アントニオ・カルロス・ジョビン エレーナ・ジョビン著(青土社刊)」の後書きで山下洋輔が活写している。
50周年記念コンサートが終わると、ヴァーヴ・レコードはオスカーにジョビンとジョー・ヘンダーソンのアルバム・プロデュースを依頼した。
オスカーは常々言っていた。「ボサ・ノヴァをブラジルに閉じ込めておく必要はない。アメリカ人が演奏すればアメリカのボサ・ノヴァになるし、ヨーロッパで演奏すればヨーロピアン・ボサ・ノヴァになる。ボサ・ノヴァとはスタイルじゃなくて、その楽曲が希少なダイアモンドの鉱脈なんだ」。彼は持論を証明すべく夢のような企画を練った。
ブラジルとアメリカのミュージシャンによるジョビン楽曲集だ。サックスはスタン・ゲッツに勝るとも劣らないジョー・ヘンダーソン。ブラジル・サイドのピアノは当然ジョビン。アメリカ・サイドではハービー・ハンコック。リズム隊はパウロ・ブラーガとニコ・アスンサォン。アメリカではジャック・デジョネットとクリスチャン・マクブライド。ギターはオスカー。なんとも素晴らしい顔ぶれではないか!
しかし、ついにこの企画は実現しなかった。なぜなら、あの日以来ジョビンは二度とピアノを弾くことはなかったから。
翌年になって、もうこの世にはいないジョビンを追悼すべくアルバムがレコーディングされた。エリアーノ・エリアスがジョビンに代わってピアノを弾いた。そのアルバムはジョー・ヘンダーソン名義の「Double Rainbow / The Music of Carlos Jobim」としてヴァーヴからリリースされた。
今一度このアルバムを聴いてみる。ジョビンの言っていることオスカーのやろうとしたことがよく理解できる。ブラジル人の演奏するボサ・ノヴァとアメリカ人の演奏するボサ・ノヴァはまったくのベツモノだけど、底に流れている魂は変わらない。ボサ・ノヴァはどう演奏しようがボサ・ノヴァなのだ。ブラジル流でもアメリカ流でも日本流でも。あんなのはボサ・ノヴァじゃない、なんて言う陰口はナンセンスだ。
アントニオ・カルロス・ジョビンもオスカー・カストロ・ネヴィスもこの世を去ってしまった。彼らとの思い出をかみしめながらこの文章を書いた。
【著者】宮田茂樹(みやた・しげき):1949年東京生まれ。A&Rマン、レコード・プロデューサー。82年にDear Heartレーベル(RVC)を、84年にはMIDI レコードを設立。 制作に携わった主なアーティスト大貫妙子、竹内まりや、EPO、ムーンライダース、リトル・クリーチャーズ、ジョアン・ジルベルト、トニーニョ・オルタ、Nobie。 現在は休職兼求職中。