1984年1月2日、わらべ「もしも明日が…。」がオリコンチャートの1位を獲得

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【大人のMusic Calendar】

1984年の本日1月2日を皮切りに、6週に渡ってオリコンチャート1位を独走したのは、わらべ「もしも明日が…。」だ。トータルで97万枚というセールスを叩き出し、80年代の女性歌手もしくはグループによるリリース曲としては、あみん「待つわ」に次いで2番目のビッグセールスを記録した一枚だ(厳密には79年10月1日発売された久保田早紀「異邦人」が、それらを上回るトータル140万枚セールスを記録しているが)。

それにしても当時の「欽ちゃんファミリー」の勢いは凄かった。81年4月フジテレビ系で放映開始された『欽ドン! 良い子悪い子普通の子』から生まれた「イモ欽トリオ」が、細野晴臣作曲による「ハイスクールララバイ」でデビュー。いきなり96万枚を売るメガヒットとなる。従来からペーソスを生かした笑いで、お茶の間に親しまれていた萩本欽一のプロデュース手腕は、これをきっかけに番組で起用された新進タレントのスター化という新機軸へと発揮され始めることとなる。

1984年1月2日、わらべ「もしも明日が…。」がオリコンチャートの1位を獲得

ギャグ的笑いを主軸としていた「欽ドン」に対して、ファミリー色の濃いほのぼのとした笑いに重点を置いていたのが、テレビ朝日系で76年から放映されていた「欽ちゃんのどこまでやるの?」だった。従来、人形という形で登場していた三つ子の女の子、のぞみ・かなえ・たまえに、82年初めて「生命」が与えられる。この3人が、そのままアイドルユニットとしてデビューしたのが「わらべ」だった。

12月21日発売されたデビュー曲「めだかの兄妹」は、まさに新時代の童謡といった趣きの親しみやすさを持ったほのぼのとした一曲。「ハイスクールララバイ」の細野に続き、今度はアレンジに坂本龍一を起用、モダンなセンスが持ち込まれている。番組の人気に後押しされて、たちまち88万枚を売る大ヒットとなり、わらべ人気も最高潮に達した、が…。

1984年1月2日、わらべ「もしも明日が…。」がオリコンチャートの1位を獲得

翌83年、のぞみ役を演じていた高部知子が、プライベートでの不祥事をすっぱ抜かれ、欽ちゃんファミリーから破門される事態に至ってしまう。アイドルたるもの、ほんの誤ちが命取りになるのは、今も昔も同じ。結局、のぞみ役は空席となり、かなえ・たまえの二人で継続していた「わらべ」が、真価を問う2枚目のシングルとして83年12月21日リリースしたのが、この「もしも明日が…。」である。ジャケットには、二人と共に見栄晴役の藤本正則が登場、クレジットも正式には「わらべ with KINDOKO FAMILY」となっており、母親役・真屋順子もコーラスに加わる形でテレビで歌われることが多かった。

1984年1月2日、わらべ「もしも明日が…。」がオリコンチャートの1位を獲得

古くは伊東きよ子「花と小父さん」から、梓みちよ「二人でお酒を」、松坂慶子「愛の水中花」まで、跳ねないけれどスウィングするマイナー調の曲は、日本人の心の琴線をくすぐる、ペーソスを感じさせる曲が多い。この曲もその一族に属するもので、前向きな歌詞もたちまち共感を得、年明け早々大ヒットへの道を爆進した。83年にはさらに風見慎吾(現・風見しんご)が吉田拓郎作曲による「僕笑っちゃいます」でデビュー、大ヒットを記録。他にも松居直美・生田悦子・小柳みゆきによる「よせなべトリオ」や、イモ欽の西山浩司と小柳という「ワル」の二人が組んだ「ニックじゃがあず」などの関連ユニットが次々とブレイクした。これら全てをリリースしていたフォーライフレコードは、初期の頃のニューミュージック王国というイメージが薄れ、欽ちゃんファミリーを筆頭とするバラエティ色が強いレーベルとして80年代を席巻する(但し、よせなべトリオの西日本発売盤のみ、松居のソロ契約の関係上フィリップスからリリースという変則的な形となる)。

そして、欽ちゃんファミリーから離れたところで、わらべの各メンバーもアイドルとしてのアイデンティティを獲得し始める。最も成功したのは、84年3月21日「プロフィール」でソロデビューしたかなえ役・倉沢淳美だ。まさにタイトル通りの大胆な内容を持ったこの曲は話題になり、オリコン4位を記録。いわゆるカタログソングの類に属する第2弾「ある愛の詩」も忘れられない。シングル10枚をリリースするという活躍ぶりだった。

おっとりしていて親しみやすいパーソナリティが持ち味だったたまえ役・高橋真美も、85年に「古いアルバム/もう少しだけ」でソロデビュー。オリコン61位という地味なヒットとなる。謹慎が解けた高部知子も84年11月にソロデビュー。シングル「雨の街」は岡村孝子が初めて他のアーティストに書き下ろした作品として伝説の楽曲となっている。

ここまでバラエティに富んだタレント引率力と時代を鋭く見る目に恵まれた萩本欽一の「笑いをプロデュースする術」を今持ち合わせる者は、果たしているだろうか。チャンスがあれば、その源流となったコント55号が残したレコードの数々も、是非探し出して聴いていただきたい。活動初期からとんがったセンスを全開させていたことに吃驚するはずだ。ついでに坂上二郎の卓越した歌唱表現にも、ね(ソロで出した「ワンナイト新宿」のファンキーぶりは絶品!)。

コント55号 ワンナイト新宿

コント55号「ワンナイト新宿」写真撮影協力:鈴木啓之

【著者】丸芽志悟 (まるめ・しご) : 不毛な青春時代〜レコード会社勤務を経て、ネットを拠点とする「好き者」として音楽啓蒙活動を開始。『アングラ・カーニバル』『60sビート・ガールズ・コレクション』(共にテイチク)等再発CDの共同監修、ライヴ及びDJイベントの主催をFine Vacation Company名義で手がける。近年は即興演奏を軸とした自由形態バンドRacco-1000を率い活動、フルートなどを担当。 5月3タイトルが発売された初監修コンピレーションアルバム『コロムビア・ガールズ伝説』の続編として、新たに2タイトルが10月25日発売された。
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