1968年1月4日、黒沢明とロス・プリモスの「ラブユー東京」がオリコン・チャート1位を獲得

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1968年1月4日、黒沢明とロス・プリモスの「ラブユー東京」がオリコン・チャート1位を獲得した。オリコンシングルチャートはこの年の1月から正式にスタートしたので、「ラブユー東京」は記念すべき最初の首位獲得曲となった。

「ラブユー東京」はいわゆる“ムード歌謡”のジャンルに入る楽曲だが、そもそもムード歌謡は戦後、連合軍占領下の日本で、外国人相手に活動していたバンドが、解放後に銀座や赤坂のナイトクラブでムーディなダンス音楽を演奏し始めたことが始まりである。当時流行していたハワイアン・バンド出身の和田弘とマヒナスターズ、ジャズ出身のフランク永井や青江三奈、ラテン出身のアイ・ジョージ、ロス・インディオス、そしてこの黒沢明とロス・プリモスなど、幾多のムード歌謡の歌い手が登場し、60年代には歌謡曲シーンの一大ジャンルを形成するまでになった。

ムード歌謡とは和製ラウンジ・ミュージックの元祖である。ハワイアンやラテンの南国ムードとは裏腹に、ムード歌謡で歌われる世界は「夜」、それも都会の盛り場の夜を舞台にした、男女の粋な駆け引きといったものが題材として多く取り上げられた。特に、ムード・コーラス・グループと呼ばれる、メイン・ヴォーカル+基本4名のコーラスという形式は、日本独自のものであり、元々楽器ができるメンバーがコーラスに回ることも多かった。ロス・プリモスもそういった形で誕生したグループである。

1961年にリーダー黒沢明を中心に結成。世界的映画監督と同姓同名であったことは、その後彼らの知名度を上げることにも役立ったと思しい。65年にはメイン・ヴォーカルに、ジョージ山下とドライボンズ、森ヨシコとそのグループなどに所属していた森聖二を迎え、66年にクラウンレコードから「ラブユー東京」を発売する。ただし、この時は「涙とともに」のB面曲であった。

1968年1月4日、黒沢明とロス・プリモスの「ラブユー東京」がオリコン・チャート1位を獲得

発売から半年がたった頃、山梨県甲府のホステスたちの間で話題になり火がつき、深夜ラジオでも連夜「ラブユー東京」が流されるようになり、67年7月には品番を変えずにジャケットデザインを差し替え、「ラブユー東京」がA面に回った。当初のジャケットはピンク地の二色刷りに楽器を抱えたメンバーが映っているものだったが、新たなジャケには都会の夜景と女性のショットに差し替えられており、この曲のニーズ、そしてロス・プリモスというグループの変化を物語っているようだ。

1968年1月4日、黒沢明とロス・プリモスの「ラブユー東京」がオリコン・チャート1位を獲得

具体的な地名こそ出てこないものの、おそらくは銀座や赤坂をイメージしているであろうこの曲は、東京のご当地ソングの1つとして、幅広い層に認知された。ご当地ソングは66年の美川憲一「柳ヶ瀬ブルース」が元祖と言われているが、美川、ロス・プリモスともにクラウンレコードの所属で、「ご当地ソング」という括り方も、クラウンの宣伝マンの発案だったという。この曲を作曲した中川博之は、CMソングの作家から歌謡曲に転身し、この「ラブユー東京」が歌謡曲のデビュー作。中川は銀座のシャンソン喫茶「銀巴里」で彼らのラテン・コーラスを耳にして、このグループに合う曲を作ろうと思い、完成したのが「ラブユー東京」だった。当時の中川の友人に、のちに推理作家となる内田康夫がおり、中川は広告代理店のプロデューサーだった内田と組んで多くのCMソングを制作、「ラブユー東京」を深夜ラジオで頻繁に流したのも、内田の尽力あってのものだったそうである。中川はその後クラウンの専属作家となり、ロス・プリモスに「雨の銀座」「たそがれの銀座」などを提供したほか、美川憲一の「さそり座の女」、その後夜のスタンダードとして親しまれる斉条史朗の「夜の銀狐」、敏いとうとハッピー&ブルー「わたし祈ってます」森雄二とサザンクロス「好きですサッポロ」など、ムード歌謡史に残る幾多の傑作を世に送り出した。

黒沢明とロス・プリモスは、この曲のヒットでムード歌謡のキングとして長く活躍することとなる。同じラテン系ムード・コーラスのロス・インディオスとは好ライバルと呼ばれ、大人の社交場で長く親しまれる名曲群を数多く残した。男性ばかりのグループが、女性人称で女心を歌うスタイルも、「ラブユー東京」とロス・インディオスの「コモエスタ赤坂」のヒットから一般的に広まっていったのである。

40~50代前後の人々にとって、「ラブユー東京」といえば、バラエティ番組『オレたちひょうきん族』で明石家さんまやMr.オクレらが出演した「ラブ・ユー・貧乏」のコーナーを思い出す人も多いだろう。実際にロス・プリモスの面々もギャグに参加し、替え歌として同番組で歌った「ラブ・ユー・貧乏」は87年にシングル化され、5万枚を売るヒットとなったのだから、楽曲の持つ力の偉大さ、ムード歌謡の息の長さを改めて認識させられる。

1968年1月4日、黒沢明とロス・プリモスの「ラブユー東京」がオリコン・チャート1位を獲得

80年に黒沢が病気のため引退、グループ名はロス・プリモスのまま活動を続けたが、09年4月に黒沢が長い闘病生活の末逝去。後を追うように同年10月に森聖二も他界。メンバー・チェンジもあったが、現在は永山こうじとロス・プリモスとして活躍中である。

黒沢明とロス・プリモス「涙とともに」「ラブユー東京」「ラブ・ユー・貧乏」写真撮影協力:鈴木啓之

【著者】馬飼野元宏(まかいの・もとひろ):音楽ライター。月刊誌「映画秘宝」編集部に所属。主な守備範囲は歌謡曲と70~80年代邦楽全般。監修書に『日本のフォーク完全読本』、『昭和歌謡ポップス・アルバム・ガイド1959-1979』ほか共著多数。
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