“踊るコンダクター”スマイリー小原
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フジテレビ創成期の歌番組『ザ・ヒットパレード』で“踊る指揮者”として注目を集めたスマイリー小原。日本人離れした濃い顔立ち、独特なパフォーマンスで人気者となった。同じ渡辺プロダクションに所属していたザ・ピーナッツとの共演も多く、彼女たちのレコード「スク・スク」のジャケットには、スマイリー小原の姿も写っている。バンドのスカイライナーズを率いて、ツイストやチャールストンなどニューリズムの流行を牽引した。83年にバンドを解散した後、その翌年の84年に63歳で世を去ったのはいささか早い別れだったといえるだろう。命日は4月30日であった。没後34年。ショーマンシップに溢れたエンターテイナー、スマイリー小原がもしも存命であれば現在97歳である。
1921年(大正11年)1月2日、神奈川県で生まれ育ったスマイリーの本名は栗原照夫。20歳の時に映画俳優として松竹からデビューした。同期には日本で最初にキスシーンを演じた俳優として知られることになる大坂志郎がいたそうである。折しも第二次世界大戦が開戦した年であり、翌年召集されて中国へ渡った。終戦後はソ連軍の捕虜となるも、1947年には帰国。アコーディオン演奏を皮切りに横浜のニューグランドホテルで楽団を結成する。進駐軍キャンプではバンド「ブルーノート・セブン」を率いて、座間のオフィサーズクラブを中心に演奏を行なった。その頃はアイルランド人を自称し、「スマイリー・オハラ」として舞台に立っていたという。その後1958年には渡辺プロダクションの所属となり、「スマイリー小原とスカイライナーズ」を結成。『ザ・ヒットパレード』をはじめ、『シャボン玉ホリデー』『クイズ・ドレミファドン!』など、渡辺プロの自社制作による番組で欠かせない顔になったのだった。どの歌番組にも必ずフルバンドが入っていた、贅沢な時代であった。
「マンボ」「ツイスト」続く第三のリズムとして喧伝された「スク・スク」は、スマイリー自らが考案した基本ステップが当時のアルバムに掲載されている。彼の指揮はバンドの方よりも前、つまり歌手や客の方を向いていることが多く、いつも軽快なステップを踏んでいたのが特徴。そして何より不思議な色気を漂わせていた。それまでにも小島正雄や小原重徳ら、人気のあるバンドマスターはいたものの、スマイリーのスター性は一味違っていたのだ。もちろん引き揚げ後には人一倍苦労もしており、実力もしっかり兼ね備えていたから、多くのレコードも吹き込んだ。10インチが主流だった時代のアルバムは、キングの『スマイリーのザ・ヒットパレード』『スマイリーのチャールストン』『スマイリーのボッサ・ノバで世界一周』『夢でダンスを』など、東芝からは『スマイリー・ウィズ・ロッキン・サックス』『ドドン・パ』、テイチクからも『スマイリーのヒット・パレード』など各社から。キングからシングル・カットされた「アンタッチャブル・ツイスト」は、インスト盤にも拘らずスマッシュヒットに至った。
ザ・ピーナッツが主演した『私と私』(62年)や、中尾ミエ主演の『夢で逢いましょ』(62年)など、渡辺プロのオールスター映画にもバンドマスターの役で出演しているが、役者として特筆すべき作品に、市川崑監督の『ど根性物語 銭の踊り』(64年)があり、警部補の役を演じた。また、フォーリーブス主演の『急げ!若者』でも、シーンこそ少ないが強い印象を残す。「スク・スク」などでかけ声は聴けるものの、普段喋っている声を聞く機会があまりなかっただけに、思った以上に野太い声には一瞬たじろぐかもしれない。1969年に出されたシングル「マナ・マナ」のカップリングだった森岡賢一郎作曲によるオリジナル「オー!オー!オー!」は、そんなスマイリーの歌声が存分に堪能出来る一曲である。ナイスカヴァーの「マナ・マナ」は、昨今いくつかのコンピに収録されて聴くことが出来るが、B面はおそらくCD化されていないと思われる。生誕100年に大全集実現の折にはぜひとも!
スマイリー小原とスカイライナーズ「スマイリーとクンビアを踊ろう」「スマイリー小原のヒット・パレード」スマイリー小原「マナ・マナ」ジャケット撮影協力:鈴木啓之
【著者】鈴木啓之 (すずき・ひろゆき):アーカイヴァー。テレビ番組制作会社を経て、ライター&プロデュース業。主に昭和の音楽、テレビ、映画などについて執筆活動を手がける。著書に『東京レコード散歩』『王様のレコード』『昭和歌謡レコード大全』など。FMおだわら『ラジオ歌謡選抜』(毎週日曜23時~)に出演中。