本日7月23日はミッキー・カーチスの80回目の誕生日
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第1回『日劇ウエスタン・カーニバル』で平尾昌章(昌晃)、山下敬二郎と共に「ロカビリー三人男」として一世を風靡してから60年。近年は、ちょっとキャラの立った老人役がお得意の熟年俳優として活躍。2016年に妻と愛犬と共にタイのプーケットに移住し、現在は仕事のある時だけ日本に帰国するというマイペースな活動を続けているミッキー・カーチス。本日7月23日はそんな彼の80回目の誕生日である。
ミッキー・カーチスこと本名マイケル・ブライアン・カーチス(帰化後の戸籍名は加千須ブライアン)は、1938年7月23日東京生まれ。両親共に英国人と日本人のハーフで、父方の祖母である三浦レオニーは日本におけるイギリス刺繍の第一人者だった。ミッキーが4才の時に一家は上海に渡り共同租界で生活していたが、終戦後の1945年に帰国。東京世田谷の烏山で暮らし始める。
私立和光高校在学中に、かまやつひろしの実父ティーブ釜萢が校長を務める「日本ジャズ学校」に通う傍ら、立教大学の「ウエスタン・ランブラーズ」などカントリー&ウエスタン・バンドで歌い始め、進駐軍のキャンプや都内のジャズ喫茶に出演。57年3月には自分のバンド「クレイジー・ウエスト」を結成し、ロカビリー歌手として頭角を現していく。
翌58年2月8日~14日に開催された第1回『日劇ウエスタン・カーニバル』に出演。前述どおりロカビリー三人男のひとりとして人気を博し、同時期にビクターより、アンソニー・パーキンスのヒット曲のカヴァー「月影のなぎさ(Moonlight Swim)」と、エルヴィス・プレスリーのカヴァー「小熊のテディ(Teddy Bear)」をカップリングしたSP盤でレコード・デビューも果たす。同年5月には早々とロカビリー・ブームに見切りをつけ、鈴木邦彦(ピアノ)、リッキー中山(ドラムス)等と共にジャズに傾倒したバンド「アイヴィ・ファイブ」を結成している。
ちょうどテレビの興隆期と重なり、渡辺プロダクションに所属していたミッキーはナベプロ制作の『ザ・ヒットパレード』の司会をはじめ、各局の音楽バラエティ番組に出演。お茶の間での認知度も高まり、人気TVタレントとして活躍する。また、初出演作となった岡本喜八監督の『結婚のすべて』(58年)以来、市川崑監督の『野火』(58年)、岡本喜八監督の『大学の山賊たち』(60年)、松山善三監督の『山河あり』(62年)等の映画にも出演。俳優としてもキャリアを積んでいった。
61年6月、本格的にジャズを志向したバンド「シティ・クロウズ」を結成。66年にはさらにラウンジ・ジャズに特化した「ヴァンガーズ」を結成し、活動場所もホテルのラウンジやナイトクラブがメインとなっていく。ヒルトン・ホテル東京をホームグラウンドとしていた関係で、香港やバンコクのヒルトン・ホテルでもハウス・バンドとして出演するようになり、タイには1年ほど滞在した。この間にフランス人のプロモーターからヨーロッパ巡業のオファーを受けたので、一旦帰国してから、ヴァンガーズ時代からのドラマー原田裕臣と共にバンドを再編。海外受けを狙って「サムライ」と改名して渡欧している。
この帰国時に、TBS『ヤング720』出演のために書いたオリジナル曲「風船」や、タイ巡業中に書いた「太陽のパタヤ」など4曲をレコーディング。それぞれ67年10月と68年4月にクラウンよりシングルでリリースされたが、すでに本人たちは渡欧した後だった。ちなみに当時は「サムライズ」名義になっているが、これはレコード会社の誤記であり、あくまでも正式名称は「サムライ」である。
渡欧した彼らは、フランス、イタリア、ドイツ、イギリス等を1年に亘り巡業(その間に何度かメンバーも入れ替わり、山内テツや現地のミュージシャンも加入)。カジノやナイトクラブ、ホテルのラウンジ、ライヴハウスなど演奏場所は様々だったが、チョンマゲに着物姿で各国のヒット曲をはじめ、日本の童謡や民謡をロック・アレンジで演奏する彼らのステージは、キワモノ的人気とはいえ現地で大好評だったそうだ。
以前、筆者は当時のエピソードを御本人から直接聞いたことがあるが、「ヨーロッパのクラブなどでは、エリック・クラプトンそっくりに弾けるギタリストが居るバンドなんかには興味は無くて、俺たちを歓迎してくれた。他には無いオリジナルな存在だったから」と述懐していた。
ヨーロッパでシングル2枚、アルバム1枚をリリース後、1970年に帰国。アルバム『河童』を制作し(71年3月発売)、日比谷野音のロック・イベントなどにも出演していたが、ヨーロッパとは比較にならないぐらい遅れていた日本のロック状況の中で活動は行き詰まり、帰国後1年ほどでサムライは解散してしまう。
その後は、日本初のフリーランスの音楽プロデューサーとして、ガロ、小坂忠、キャロル、ジプシー・ブラッド、外道などを手がけ、現在でも日本ロックの名盤として高く評価される作品の他、左とん平の歌手デビュー作となった「とん平のヘイ・ユウ・ブルース」(73年)や、スプーン曲げで一世を風靡し超能力ブームを巻き起こしたユリ・ゲラーのアルバム(75年)といった珍盤も残している。既存のレコード会社の制作者では考えつかないようなユニークなアイディアの持ち主であったミッキーならではの仕事と言えるだろう。
プロデューサー時代も自分のバンド「ポーカー・フェイス」を率いて歌手活動はしていたが、次第に音楽シーンから離れ、80年代には趣味が高じて、立川談志に弟子入りして「ミッキー亭カーチス」の名前で高座に上がったり、ハンドメイドのバイクショップ「ブライアン・カーチス」を経営。90年代からは再び俳優業に復帰し、TVドラマ、映画、ミュージカルの舞台に出演する一方で、散発的にライヴ活動も行なうなど、まさに八面六臂の活躍ぶりである。
自由自在にマルチな才能を発揮し続けながら芸能生活60余年。傘寿を迎えたミッキー・カーチスが、これからも既成のジャンルや常識に囚われない型破りなアーティスト活動を続けていくことを大いに期待したい。
サムライ『河童』ガロ「GARO」CAROL「ルイジアンナ」左とん平「とん平のヘイ・ユー・ブルース」ジャケット撮影協力:中村俊夫
【著者】