1974年9月14日、エリック・クラプトン「アイ・ショット・ザ・シェリフ」が全米1位を記録

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【大人のMusic Calendar】

太陽が眩しそうな大きな空に向かって、1本のヤシの木がそびえる。降り注ぐ光に白い壁が映える家の前、そのヤシの木のたもとで、エリック・クラプトンは腕を組んでたたずんでいる。無精ひげが頬や顎を覆っているが、髪は短く刈られ、ここ数年の苦悩ぶりが嘘のようなたたずまいだ。普通の、という表現は余りにも芸がないが、少なくとも「ギターの神様」という称号から離れ、身近な存在に感じられたことは確かだった。

それが、アルバム『461オーシャン・ブールヴァード』のジャケットだ。461オーシャン・ブールヴァードというのは、その家の、つまり、彼がマイアミに滞在していた家の住所からきている。フロリダ半島に位置する世界屈指のリゾート地、ゴールデン・ビーチのこの家から、1974年4月、5月と、エリック・クラプトンは、新しいアルバムのレコーディングにクライテリア・スタジオに通うことになる。

1974年9月14日、エリック・クラプトン「アイ・ショット・ザ・シェリフ」が全米1位を記録
もちろん、デレク・アンド・ザ・ドミノスの『いとしのレイラ』を生んだスタジオで、デュアン・オールマンとの友情を決定づけたスタジオでもある。ただし、そのデレク・アンド・ザ・ドミノス解散後の、つまり、1970年代に入ってからの数年間は、クラプトンにとって不毛の季節、というよりは、暗黒という表現でも足りないような時代だった。なにしろ、重度の薬物依存症に侵され、隠遁生活状態に近かった。

1971年8月には、ジョージ・ハリスンが提唱したバングラデシュ難民コンサートに、ボブ・ディランやレオン・ラッセルと出演したり、1973年1月には、ピート・タウンゼントを中心に友人たちが彼を担ぎ出し、後に『レインボー・コンサート』として記録されるコンサート出演はあったりもしたが、ほとんど世の中との接触を断っていた。

その彼が、薬物依存症から抜け出すための治療、療養を経て、フロリダのマイアミに向かったのは、1974年4月のことだ。もちろん、新しいアルバムのレコーディングのためだった。そこで待っていたのは、ドミノス時代のベーシスト、カール・レイドルを中心に、彼が集めた同郷オクラホマはタルサ出身のミュージシャンたちだった。ドラムスのジェイミー・オールデイカー、オルガンのディック・シムズ、マイアミでセッション・ギタリストとして活動していたジョージ・テリー、そして、ハワイ出身の日系アメリカ人で、ロック・ミュージカル『ジーザス・クライスト・スーパースター』で名をあげたイヴォンヌ・エリマンと言った人たちだ。

スタジオに入るまで、クラプトンは、楽曲等を含めて具体的には何も用意していなかったという。ただ、「ギターの神様」という重荷は降ろしたい、伝説から抜け出したい、それがかなえばいい、それだけだった。そして、願わくば、苦悩の季節に別れを告げたい。そのいっぽうでは、もがき苦しんだ生身の姿をさらすのが怖くもあった。実際、アルバムでは、ギター・ソロを延々と奏でることよりは、効果的にドブロを弾き、時には、イヴォンヌ・エリマンと一緒に歌う姿が目立った。極度の緊張から解放され、穏やかな光を浴びながら新しい生気を得たような歌声であり、演奏だった。

そして、ジョニー・オーティスやロバート・ジョンソンなどのブルースのカヴァー、あるいはカウボーイのスコット・ボイヤーの作品などに交じって、そこで取り上げられていたのが、「アイ・ショット・ザ・シェリフ」だった。ジャマイカのボブ・マーリーの作品で、1973年、当時彼が、ピーター・トッシュ、バニー・ウェイラーと一緒に在籍していたウェイラーズの『バーニン』で発表していた。それを、ジョージ・テリーに聴かせてもらい、当初は新しいものとの出会いに戸惑ったが、取り上げたという。

1974年9月14日、エリック・クラプトン「アイ・ショット・ザ・シェリフ」が全米1位を記録
1974年9月14日は、その「アイ・ショット・ザ・シェリフ」が、ビルボードの全米チャートで1位に輝いた日だ。もちろん、クラプトンにとっては、初めての1位で、アルバムのほうもそれに引っ張られる形で大ヒットする。しかも、当時はまだ世界的に馴染みのなかったジャマイカのレゲエを、世界に紹介する上でも大きく貢献した。

実際、これを前後に、ポール・サイモンやスティーヴィー・ワンダーらがレゲエを取り上げ、ジョン・レノンに至っては、「レゲエは1970年代の音楽の新しい流れになるだろう」とまで発言するくらいだった。小気味よく弾むその「アイ・ショット・ザ・シェリフ」は、ジャマイカの、殊に職を失い、明日を奪われた貧しい若者たちがあふれかえる首都キングストンの社会状況を背景に、その若者たちと、彼らを抑えこもうとする権力、警官との対立を歌ったものだった。

本来は、発表されたものより2分以上も長かったらしいが、クラプトンのギター・ソロなどがカットされ、4分22秒に収まった。そこにも、「ギターの神様」を徹底してきらい、その伝説から抜け出したかったという彼の思いが伝わってくる。同年6月28日、このレコーディングと同じ顔ぶれによる新しいバンドを従え、コネチカットのニュー・ヘヴンを皮切りに全米ツアーに。その延長として、10月末、クラプトンは初めて日本の土を踏む。そして、10月31日、日本武道館で、最初に彼が歌い、演奏したのは、「スマイル」だった。

【著者】天辰保文(あまたつ・やすふみ):音楽評論家。音楽雑誌の編集を経て、ロックを中心に評論活動を行っている。北海道新聞、毎日新聞他、雑誌、webマガジン等々に寄稿、著書に『ゴールド・ラッシュのあとで』、『音が聞こえる』、『スーパースターの時代』等がある。
1974年9月14日、エリック・クラプトン「アイ・ショット・ザ・シェリフ」が全米1位を記録

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