7月4日はバリー・ホワイトの命日~キャピトル・タワーの前での誓い
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58歳。
1970年代からヒットを出すようになり、その低音ヴォイスで人気を獲得したバリー・ホワイトは、2003年7月4日、58歳の若さで死去した。バリー・ホワイトは、2002年9月、以前から患っていた高血圧からくる腎臓疾患で入院、人工透析を受けていた。また5月にカテーテル注入手術のときに脳梗塞を起こし、右半身に麻痺と言語障害も発生していた。あれから、すでに16年。還暦までたどり着かずの旅立ちだった。
バリー・ホワイトは、1944年9月12日テキサス州ガルヴェストン生まれ。幼少の頃にロスアンジェルスへ移り住み、母親に育てられた。子供の頃から教会に行き、ゴスペルに親しみ、12歳の頃にはすでにプロのR&Bシンガー、ジェシー・ベルヴィンのヒット「グッドナイト・マイ・ラヴ」(1956年12月のヒット)でピアノを弾いていたという。十代半ばでヴォーカル・グループ、アップフロンツを結成、1960年にラムトーンというインディレーベルからデビュー。
さらに、1965年、ソロシンガー、バリー・リーという名でもシングルを録音している。その後1966年から1967年にかけては、ムスタング/ブロンコというインディレーベルで、A&Rの仕事にも携わった。1969年に、オーディションに受けに来た女性シンガーのグループをプロデュースすることを決意、このグループは1973年、ラヴ・アンリミテッドとして「ウォーキング・イン・ザ・レイン・ウィズ・ザ・ワン・アイ・ラヴ(恋の雨音)」の大ヒットを放ち、グループも、またそのプロデューサーであるバリーにも注目が集まった。
1973年、バリー・ホワイトとして「アイム・ゴナ・ラヴ・ユー・ジャスト・ア・リトル・モア・ベイビー」がソウルで1位、ポップで3位、ミリオンセラーになり、いきなり大ブレイク。その後も数多くのヒットとともに、プロデューサーとして、シンガーとして大人気を獲得した。
1987年、A&Mに移籍。1999年の「ステイング・パワー」でグラミー賞を2部門受賞。1990年にはクインシー・ジョーンズのアルバムで、「シークレット・ガーデン」を歌い、大ヒットさせた。
日本では1988年から東京のFM局J-WAVEで深夜の番組のDJを勤めたこともある。また彼がプロデュースしたラヴ・アンリミテッド・オーケストラの「ラヴズ・シーム(愛のテーマ)」は、JALのCMに使われ大ヒットした。
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邸宅。
バリー・ホワイトがコンサートで来日したのは1974年9月のこと。僕は中野のサンプラザで観た。非常によく覚えているのが、何かのバラードで、あのバリー本人がステージから客席に降りてきたことだ。そして、客席の通路を長いマイクコードをひっぱり歌いながら、歩いたのである。歌手がステージを降りて客席を歩くなどというものを見たのは、僕にとってはそのバリー・ホワイトのコンサートが初めてだったので驚いた。
そんな彼と再会するのが、13年後のこと。A&Mからの移籍第一弾アルバム『ショー・ユー・ライト』についてインタヴューするために、彼の自宅を訪問する機会を得た。1987年の夏のことだった。ロスアンジェルス郊外のシャーマンオークスにある邸宅だった。そこにはスタジオもあった。
その邸宅は、山の中腹にあり、母屋のほうから下がっていくと、プールがあるという豪華なものだった。バリーが様々な写真の飾られている家の中や、その下のほうのエリアを自らツアーしてくれたことを思い出す。しかし、1994年1月のロスアンジェルス大地震で、この豪邸が破壊され、その後、彼はラスヴェガスに住むようになっていた。
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声変わり。
彼の声は、レコードの通り、低く、太い。そして、比較的ゆっくり話す。体が大きいだけに、実に存在感がある。ビッグダディーというにふさわしい貫禄があった。そのときの話の中心は、まもなくリリースされる新作アルバムについてだったが、その意気込み、自信ぶりは、半端なものではなかった。彼もまた、のってくると話がまったく止まらないタイプの人物であった。
バリーがこの有名な低音の声になったのは、14歳のときだった、という。ある朝起きたら、自分の声がこんなだみ声になっているので、恐怖におののいた、という。体は震え、母親に話かけたが、母親も最初は何が起こったか、わからなかった。だが、すぐに彼女は自分の息子が声変わりしたことを察知する。そして、母は笑顔になり、その目から涙がこぼれ落ちた。「私の息子が、大人の男になったのね」とバリーに語りかけた。
1960年、彼が16歳のとき、ラジオから流れてきたある曲に心を奪われた。それはエルヴィス・プレスリーの「イッツ・ナウ・オア・ネヴァー」だった。そして、これを機に彼は歌手か音楽の道へ進もうと決心する。しかし、十代の頃は、本当に貧乏だった。新しい靴も買えずに、穴があいた靴を何日も履いていたという。
スイーツ。
あるとき、ハリウッドにあるキャピトルレコードの丸いビルの前に立ち、彼は決意した、という。そのビルは、ロスの音楽業界のある種、象徴的な建物だった。自分は絶対に音楽業界で成功し、このビルの中に入るんだ、と。
そして、彼のこの声は世界で唯一の魅力的な声となった。ラヴソングに欠かせない声、ベッドルームになくてはならない声、彼女を口説くときの必要条件。そして、ムードを演出したいと思うプロデューサーは、躊躇することなく、バリーに電話した。クインシー・ジョーンズがそうだった。
彼の作品の最大の特徴は、すべてラヴソングという点。男性から女性へのラヴソングである。しばしば「ベッドタイム・ミュージック」「ゲット・イット・オン・ミュージック(セックスするときの音楽)」などと呼ばれ、男女のシーンに欠かせないもの。
彼の声を評して、「もし、チョコレート・ファッジ・ケーキが歌うことができるなら、それがバリー・ホワイトの声だろう」と言われたこともある。それだけ、スイートでメローな声ということだ。そう、バリーのヴェルヴェット・ヴォイスは、ソウル界の超一級スイーツなのだ。そして、おいしいスイーツに女性は目がない。
【著者】吉岡正晴(よしおか・まさはる):音楽ジャーナリスト、DJ。ソウル・ミュージックの情報を発信しているウェッブ『ソウル・サーチン』、同名イヴェント運営。1970年代には六本木「エンバシー」などでDJ。ディスコ、ブラック・ミュージック全般に詳しい。ラジオ番組出演、構成選曲、雑誌・新聞などに寄稿。翻訳本に『マーヴィン・ゲイ物語 引き裂かれたソウル』(デイヴィッド・リッツ著)、『マイケル・ジャクソン全記録』など。自著『ソウル・サーチン R&Bの心を求めて』など。毎月第一木曜夜10時『ナイト・サーチン』(ミュージックバード)を生放送中。最新情報は、<吉岡正晴公式ツイッター>で。
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