
◎1997年4月4日 東京ドーム
ヤクルト 0 1 0 1 0 2 1 0 1 = 6
巨 人 0 0 2 0 0 0 0 1 0 = 3
HR (ヤクルト) 小早川1号・2号・3号 稲葉1号
(巨人) 松井1号
「何でお前は試合に出してもらえんのや? だったらウチへ来いよ」
この言葉の主は、ヤクルト・野村克也監督。声を掛けられたのは、当時広島に在籍していた小早川毅彦である。広島出身の小早川は、PL学園を経て法政大に進学。2年生のときに東京六大学野球・秋季リーグで三冠王に輝いた。1983年のドラフト会議で広島から2位指名を受け入団。地元出身のスター獲得にカープファンは沸いた。当時まだ現役だった山本浩二の後を継ぐ「ミスター赤ヘル候補」として期待され、1年目から112試合に出場。打率.280、16本塁打、59打点の活躍でリーグ優勝と日本一に貢献し、新人王に輝いた。
その後も入団から7年連続で2ケタ本塁打を記録。カープの4番打者に成長した小早川だったが、山本浩二が指揮官に就任すると、野村謙二郎、前田智徳、江藤智ら若手選手が台頭。小早川の出番はだんだん減っていった。13年目の1996年になると一軍出場は8試合に激減。ついに球団から戦力外通告を受けてしまう。引退試合開催とフロント入りを打診された小早川。しかし、心のどこかに「まだやれる」という思いがあった。
「ヤクルトに、獲得の意思があるか聞いてもらえませんか?」と移籍を志願したのは、野村監督からの“誘い”があったからだ。ID野球を掲げる指揮官の下で、一度野球をやってみたいという好奇心もあった。「ウチへ来いよ」が冗談ではないなら、もう一度新天地で勝負してみたい……ヤクルトは獲得の意思を示し、小早川の願いは叶った。
迎えた1997年の開幕戦。ヤクルトの対戦相手は宿敵・巨人だった。1992年・93年はヤクルト、94年は巨人、95年はヤクルト、96年は巨人と、当時ペナントを奪い合う関係だった両チーム。長嶋茂雄vs野村克也、両指揮官がバチバチと火花を散らしていた時代だ。前年、巨人にリーグ優勝をさらわれたヤクルトにとって、この開幕戦はどうしても落としたくないゲームだった。
この大事な開幕戦で、野村監督はなんと、前年わずか1安打の小早川を「5番・ファースト」でスタメンに抜擢。実は野村監督、オープン戦のときから小早川にこんな“暗示”をかけていた。「お前は大学でもプロでも、1年目は良かったやないか。ヤクルトに来た1年目も絶対に活躍できるはずや」。小早川が法政大1年時の春季リーグで4番を打ち、六大学ベストナインに選ばれたこともノムさんはちゃんと知っていたのである。
この“暗示”のお蔭もあってか、オープン戦で好調時の感覚を取り戻した小早川に、野村監督はさらにミーティングでこんな策を授けた。「斎藤雅樹はカウント3-1になると、左打者に投げる球はほぼ、外から入って来る変化球や。それを叩け!」。前年、斎藤に0勝6敗と完全にカモにされたヤクルト。しかも斎藤は「4年連続開幕戦完封勝利」という大記録が懸かっていた。そうはさせてなるかとエース攻略に燃えていたヤクルトベンチ。広島時代、斎藤との対戦成績が.314と苦手意識がなかった小早川は、野村監督にとって格好の“秘密兵器”だった。
迎えた開幕戦。2回、移籍初打席に立った小早川は、斎藤が投じた初球のストレートをいきなりセンターバックスクリーンに叩き込むと、続く4回の第2打席は、カウント3-1から外角のカーブを右翼席へ。「本当に、監督が言った通りの球が来た」と驚いた小早川。6回の第3打席も、3-1から内角低めのシンカーをすくい上げて右翼席へ。前年、リストラされた男の3連発に、斎藤も巨人ベンチも唖然。これで勝負あった。
“野村再生工場”の傑作・小早川の活躍で天敵・斎藤をKOしたヤクルトは、この年ペナント奪回を果たし、日本一に輝いた。日本シリーズ終了後、野村監督はこう語った。「(開幕戦は)たかが130分の1かもしれないが、そこに賭けた。負け犬根性も、斎藤への苦手意識もみごとに払拭してくれた。小早川の3本がすべてや。あれで日本一になれた」
<チャッピー加藤>