本日5月4日は、日本のアイドル産業に於ける分岐点を築いた重要人物・菊池桃子の48回目の生誕記念日である。
敢えて近年の彼女の活動状況には触れないでおくとするが、アイドルとしての活動を停止してもなお、格好のニュースネタを度々提供し、かつてのファン世代は未だ複雑な思いに襲われることを余儀なくされている。
そもそも、立ち位置からして従来の芸能界然としたアイドルとは異質だった桃子。
そのデビューのきっかけは、学研が1983年(昭和58年)に創刊したチェリーボーイ・ジェネレーション向けアイドル雑誌「Momoco」であった。
前年の派手な新人アイドル戦線が、両手で数えられる程の超人気者を残して落ち着き、ある程度静寂期を迎えた83年のアイドル界に投下された「Momoco」は、読者の仮想恋人的存在を提供する場として、芸能界の華々しさと一線を画すメディアとなったが、そこに「名前」を与えた者として、菊池桃子は充分にシンボリックだった。
その中枢には「モモコクラブ」というコーナーがあり、アイドルの卵達が毎月フレッシュな写真を提供していた。
そこからは酒井法子を始め、後に大ブレイクするアイドルが大挙登場した。
「スター誕生!」に象徴されるアイドル製造システムと全く異質のバックグラウンドから、突如芸能界最前線に放り出された彼女は、いよいよ歌手デビューへと進む。
「スタ誕」を放映していた日本テレビ傘下に81年誕生したVAPレコードがアイドルを手がけるのはこれが初めてではなかったが、「Momoco」やその姉妹誌「BOMB」の投稿コーナーから生まれた映画で、彼女の初主演作となった「パンツの穴」、CMに起用した資生堂等が絡む大メディアミックスに助けられ、同社初の強力デビュー作戦の下、シングル「青春のいじわる」が届けられる。84年4月21日のことだ。
同曲そのものも、従来のアイドル歌謡曲のイメージを大きく覆す一曲だった。
まず、桃子の全く気負いのない歌。
単に歌唱テクニックの欠如と片付けられない、混じりけのない少女の声がそこにあった。
もっとも、彼女自身は元々ピアノの名人であり、音楽的素質が全くないと言うと嘘になるのだが、そこまでテクニックを計算できるスキルを持ち合わせていなかったのは幸いだったと言える。
現にテレビに出てこの歌を歌った彼女は、全く微動だにしなかった。
まっすぐすぎにも程がある。
そんな彼女を支えたのは、70年代からシティポップ系の作曲家として地道に努力を続けてきた林哲司。
60年代にアウト・キャスト、ザ・ラヴといったGSで活躍後、裏方としてJ-popの新時代構築に尽くすことを選び、トライアングル・プロダクションを設立した藤田浩一(09年没)。
この作曲家・プロデューサーコンビは、前年に手がけた杉山清貴&オメガトライブの大ブレイクで、VAPとトライアングルの地位を大躍進させた。
桃子はその好調軌道に乗せられ、スムーズに発進することができたのである。
デビュー・アルバム『OCEAN SIDE』のタイトル曲の歌詞には、彼らのファースト・アルバム『AQUA CITY』へのリスペクトを兼ねた言及が見られる。
そして、作詞を手がけたのは、これがアイドルへの初の歌詞提供に近いケースとなる、あの秋元康である。
この後、5枚目のシングルで後述する映画の主題歌「BOYのテーマ」に至るまで作詞を手がけているが、その発売2か月後、明らかに「モモコクラブ」を下敷きにより大規模なクロスメディアに変容させたと言えるおニャン子クラブの初シングル「セーラー服を脱がさないで」を手がけ、桃子人脈を離脱、現在のアイドルビジネスの礎石を築くことになる(ため息)。
アルバムのクレジットに錚々たる演奏メンバーの名を刻みつけての洗練されたサウンドと、気負いない歌声の不思議な融合は、瞬く間に当時のヴァージンボーイ達の心を捉え、シングルはオリコン13位、売り上げ14.3万枚の好調スタート。
この曲のインパクトが後に名声を得るミュージシャンの心に大きいものを植え付けた証は、X JAPAN「Silent Jealousy」(91年)に刻まれている。
同曲のサビのフレーズが「青春〜」のイントロにあまりにも似ているのだ。
この成功はマスメディアにも訴え、歌番組への出演はごく少ないながら、CM起用社数が大幅に増える結果となる。
85年には2作目の主演映画「テラ戦士Ψ(サイ)BOY」が公開され、人気にさらに拍車をかけた。
2枚目のシングル「SUMMER EYES」からソロとしての最後のシングル「ガラスの草原」までは、連続してベスト10入り。
うち7曲は連続1位を獲得した。
その連続1位の6曲目「Say Yes!」は、「動き」を伴う歌唱仕草、秋元のライバル・売野雅勇によるポジティヴな歌詞など、初の「異色作」と捉えられ、いよいよ転機も近いかと思わせた。
続く同名映画主題歌「アイドルを探せ」のB面「Ivory Coast」では、初めて林哲司以外のアレンジャーとして、あの久石譲を起用する。
やがて音楽ソフトの主流が完全にCDにシフトし、アイドル・ポップスが苦戦を強いられる時代=88年が到来すると、桃子は突如新バンド、ラ・ムーを結成。
音楽性を劇的にチェンジする。
その時にロックバンドという形容を用いてしまったため、後に彼女のキャリア史上最も滑稽なネタとして扱われる悲運に付きまとわれることになるわけだが、音楽的には従来の桃子サウンドにアーバン風味を加えたという程度のものである。
しかし、その程度で時代に迎合できるわけがない。
ラ・ムーの活動終了後、91年にひっそり一枚、自作曲を含む野心的なアルバム『Miroir』を出した以外、桃子の芸能活動はもっぱら女優としてのものに限られ、アイドル経験で得た明朗なキャラクターにさらにかげりが加わった個性派ぶりを確立している。
2014年にはデビュー30周年を記念してセルフカバー・ベスト盤をリリースして、久々に歌声を披露した。
ここまで書いた後で密かに明かすが、筆者もそんな桃子の誘惑に逆らえなかった一人であり、ある悲しい出来事に打ちひしがれた抜け殻には、桃子印の潤いが最適な癒しだった。
引越しの際無造作に詰められたVHSテープには、確実に彼女のテレビでの歌唱シーンやCMが大量に残ってるはずだし、アルバムも当時のままちゃんと手元に残っている。
そもそも初めて買ったCD自体、桃子のベスト盤『卒業記念』(86年)だった。
唯一収められた新曲「Deja Vu」のために、豪華写真集の付いたLP2枚組を手にする代わりに、プレイヤー購入に10ヶ月も先駆けてその大層なBOXを購入する勇気が芽生えたのだ。
同じタイトルの付いたオーケストラ演奏によるインストの企画盤には、一曲だけ彼女のピアノ・ソロ演奏が収録されている。
先立った吉永小百合や後発のAKB48・松井咲子のピアノ作品集のように、全編弾き倒してほしかったという想いを抱いた者は少なくなかったと思う。
ピアノ云々を別にしても、今改めて音楽的に桃子を捉えてみると、とても新鮮だ。
スタッフを共有するオメガトライブがライトメロウという文脈で再評価される一方で、歌声が彼女のものに入れ替わるだけで、とてつもなく甘酸っぱい感覚が醸し出されてしまうのだから。
まさに忘れられた青春を呼び覚ましてしまう、フレッシュ100%「桃」なのである。
【執筆者】丸芽志悟