最近のプロ野球で最もほほえましく、うれしかったのは、古希を迎えたロッテの寮長(兼)打撃投手、池田重喜さんがスポットを浴びたことです。
素晴らしい野球人生!本当にすごいことです。
今年、5月1日で70歳ということで、それこそ1軍のスター選手以上の取材を受けましたが、
「おれは不器用で、できることがこれしかなかった。ただ、投げているだけ」
と、これまでどおり謙虚な態度で応じてくれるのも人柄を表しています。
大分県臼杵市出身。津久見高から社会人の日鉱佐賀関へ入社しました。
1965年の第1回ドラフト会議では、広島から15位指名を受けますが、これを拒否。
1967年のドラフト4位で大洋へ入団しました。翌1968年のプロ1年目から主に中継ぎで起用され、5勝をマーク。
しかし、これがシーズン最高の成績になるとは思わなかったでしょう。
1969年は4勝。阪神の田淵に第1号を献上しています。
もちろん、ONとも対戦したことも。
1970年オフにロッテへトレード移籍したものの、右肩痛に悩まされ、4年間で3勝をあげただけ。
現役は7年。通算13勝12敗でした。
本当はもっと現役を続けたかったでしょう。
でも、右肩を故障していた際、1軍の投手コーチ補佐を兼任。
当時の金田監督はこの時のいい仕事を見逃さなかった。
結局、命令には逆らえません。
1977年限りで引退を決断しました。
裏方の人手不足で、投手コーチ補佐とは名ばかりの状況。
打撃投手に加え、ブルペン捕手、トレーニングコーチ、用具係までてきぱきと何役もこなす人は、そうざらにはいません。
また、時には、2軍戦にも出場。
イースタンリーグの取り決めで、認められていたため、外野手として試合に出たこともありました。
特に主力選手から、重宝がられたのは、打撃投手。
95パーセントのストライク確率は、名人芸です。
榎本喜八、張本勲、有藤通世、落合博満、野村克也などを支えてきた。
自身も、500回の腹筋や、1万5000歩の日課をずっと続けることで、70歳の今も、元気にマウンドに立っていられるのです。
一方、寮長としての池田さんも魅力。
入団すると、高卒は4年、大卒が1年は寮生活を送り、社会人として指導を受ける。
「今までは野球をやっていただけだ。でも、これからはそれが職業になる。楽しいことなどひとつもない。夢なら、寝てからみればいい」
と、ルーキーには厳しい社会であることを最初に話す。
その上で
「神さまは平等ではない。運を逃がすな。つかむ。呼び込む。だから日頃の行いが大事だ。練習、それと部屋が汚いと運もやってこない」
昔は、どんな社会でも、こういった経験を踏まえながら心に響く話をしてくれた人が必ずいました。
きっと、今の選手には池田寮長の言葉が新鮮に感じるはず。
それから、大金を稼ぐ可能性があるプロ野球だけに、こうも話すそうです。
「3億円の貯金をつくれ。そうすれば、月50万円をつかったとして、50年暮らせるから」。
(原文)青木政司
5月10日(火) 高嶋ひでたけのあさラジ!「スポーツ人間模様」