ジョン・レノンの命日12/8は今は亡き天才ジム・モリソンの誕生日でもある【大人のMusic Calendar】

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ハートに火をつけて,The-Doors

12月8日は、ポップス・ファンの多くがジョン・レノンの命日(80年)として認識している日付である。しかしながら、この日はまたサミー・デイヴィス・ジュニア(25年)やジェリー・バトラー(39年)、グレッグ・オールマン(47年)、シニード・オコナー(67年)らの誕生日であったり、マーティ・ロビンス(82年)やアントニオ・カルロス・ジョビン(94年)らの命日であったりして、何かと話題性のある一日でもある。それでもジョンの命日ほどではないにしても、ドアーズのリード・ヴォーカリスト、ジム・モリソンの誕生日としてこの日を覚えているファンも少なくないだろう。

ジムは1943年、フロリダ州メルボルンの生まれ。もともとロックン・ロールが嫌いな少年だったが、エルヴィス・プレスリーを好きになり、ワシントンD.C.に住んでいる時にはブルースに魅せられたという。ただし、フロリダ・ステイト・ユニヴァーシティをドロップ・アウトして、ロサンゼルスのUCLAに転入したのは、映画を専攻するためだった。ちなみに、彼の好きな映画のひとつは、ジーン・ピットニーの歌う主題歌も大ヒットした、ジェームズ・スチュアートとジョン・ウェインが共演した西部劇「リバティ・バランスを射った男」(62年)である。

このままなら映画関連の仕事に就く可能性の方があったが、65年に友人から同じUCLAのレイ・マンザレク(キーボード)を紹介されたことで音楽の道に方向が変わる。ふたりはジョン・デンズモア(ドラムス)とロビー・クリーガー(ギター)を加え、ウィスキー・ア・ゴー・ゴーなどで腕を磨いた後、67年1月にドアーズとしてデビュー。「ハートに火をつけて」(67年/第1位)や「ハロー・アイ・ラヴ・ユー」(68年/第1位)、「タッチ・ミー」(68年/第3位)などのヒット曲を連発し、アルバムは『ハートに火をつけて』(67年/第2位)、『まぼろしの世界』(67年/第3位)、『日の出を待って』(68年/第1位)などで高い評価を得る。ロックの激しさだけでなく、キーボードをフィーチュアした斬新なサウンドや妖しげな美しさ、暗さの漂う歌詞などは個性派が多かった当時でさえ独特だった。また、ヒット曲ではないが、12分近い大作「ジ・エンド」(67年)で“父さん、あんたを殺したい”と歌った後で、もどかしく、苦しげに“母さん、あんたと****したい”と訴える様は大いなる衝撃と戸惑いを与えたものだ。

奔放な性格と言われただけに、様々なトラブルも彼は起こしている。その一部を紹介すると、以前ここで紹介したエド・サリヴァンのあのテレビ番組で、性的なイメージを喚起する歌詞の一部変更を事前に了承していながら、67年9月17日の本番ではそのまま歌ってしまう。また、同じ年の12月9日のコネティカット州ニュー・ヘイヴン公演では警官に暴言を吐き、コンサート中に逮捕された最初のロック・スターとなる。さらに、69年3月1日のマイアミ公演ではステージ上で自慰行為をして訴えられるといった有様だ。

こうした若さゆえの衝動的な行動につながるのか、8作目『L.A.ウーマン』(71年/第9位)を録音すると、彼はパリに渡る。その作風はフランスの象徴主義に通じると論じられたこともあるが、詩作に専念するのが目的のひとつだった。ところが、渡仏から約4ヶ月、71年7月3日の午前5時、住居としていたフラットのバスルームで死去。まだ27歳だった。ちなみに、2年前(69年)の同じ7月3日にはローリング・ストーンズを脱退したばかりのブライアン・ジョーンズが自宅のプールで水死。彼もまた27歳だった。

【執筆者】東ひさゆき(あずま・ひさゆき):1953年4月14日、神奈川県鎌倉市生まれ。法政大学経済学部卒。音楽雑誌「ミュージック・ライフ」、「ジャム」などの編集記者を経て、81年よりフリーランスのライターに。おもな著書に「グラミー賞」(共同通信)など。

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