戸川昌子は、不世出のユニークな歌唱を行うシャンソン歌手であり、江戸川乱歩賞を受賞した小説家であり、そして6~70年代には一流の文学家サロン、2000年代には日本のサブカルをリードしたライヴカフェとして君臨した「青い部屋」のオーナーである。
戦争で父と兄を亡くし、戦後は母と二人で同潤会「大塚女子アパート」に入居したという生い立ちが、歌に彫られる深い陰影のルーツになっているとみていいだろう。戦争体験から来る、死についての諦観にも似た心情が、「暗い日曜日」や阿部定を歌った「お定恨み節」「ボンボヤージュ」など、戸川の歌は、深い淵のような影に彩られ、一度聴いたら忘れられない衝撃をもたらす。
伊藤忠商事の英文タイピストというOL時代を経て、1957年頃からシャンソンの牙城、銀座の銀巴里に出演するようになる。きっかけは、素人の飛び入り企画に戸川が参加したところ、美輪明宏の目に留まったということ。生涯の交流が始まる。音域がアルトのシャンソン歌手が稀少だったことがポイントだったという。
銀巴里出演の合間に楽屋で長編小説を書いていたというから、サエキはエコーズのライブの終了後に宿泊ホテルに籠もって芥川賞作家になった辻仁成を思い出す。チャンスをつかんだ小説はミステリー『大いなる幻影』。かつて住んだ同潤会大塚女子アパートを舞台とした話し。精緻な描写は、現在の頭脳に優しいタッチの小説とは遠く、格調ある60年代小説のスタイルだ。その物語性が認められ、『深い失速』をはじめ、世界8か国語に翻訳されている。サエキもペーパーバックを見せてもらったが、本格的な推理作家としての海外紹介だった。
1964年に『猟人日記』が日活で映画化、自身も女優として出演し、以降タレントとしても活躍していく。
1967年にバー・サロン『青い部屋』を最初は青山に開店。後に渋谷二丁目に移る。そこには三島由紀夫、野坂昭如、筒井康隆、五木寛之、今東光、立川談志、林家三平、有吉佐和子、五味康佑、田辺茂一、生島治郎・・・といった一流の文化人が集う場所となった。もちろん、美輪明宏、石井好子、長谷川きよしといった歌手もここで歌った。
その中でも長老格といえるのが川端康成。サエキは2005年頃、青い部屋にて、川端康成の付き人的存在をやっていた建築家の黒川紀章のためのパーティを主宰したことがある。黒川が戸川との青い部屋での交流を思い馳せ申し出た会だった。その時に、黒川の口から明かされた川端の素顔は、午前1時頃に青い部屋に現れ、黒川を呼び出すということだった。もちろん床についていた黒川は、急いで着替えて2時頃に到着すると、酒を飲まない川端康成は、酒の代わりのハイミナールで酩酊していて、黒川が来たことがわからないほどだったという。
また唐十郎は、酔ってナイフを出して野坂にからみ、野坂がキックボクシングで応戦、というシーンもあったという。(「青い部屋」NTT出版、野坂昭如&戸川昌子対談)
2000年になり、戸川はシャンソン歌手ソワレを中心に、美術家の松蔭浩之、ヴィヴィアン佐藤、サエキなどと青い部屋をサブカルチャーの牙城とすべく、青い部屋を大改装。松蔭浩之のディレクションによる内装により、シンボリックな赤いバラが青い壁に映えるヴィヴィッドなライヴカフェへと転生した。
戸川とは旧友である「男と女」の作曲者ピエール・バルーをはじめ、英国のモーマス、仏のサンセヴェリーノなど海外の歌手も多数出演するインターナショナルなライブ・ハウスとして隆盛することとなった。
青い部屋には連日出演し、若者の認知を大幅に増やした戸川は2005年、約30年振りのソロアルバム『ラスト・チャンス・キャバレー』を発表。2013年、は長男のシャンソン歌手NEROと共作盤『商売やめた』を発表。
2010年12月、惜しまれながら閉店する。
戸川昌子は2016年4月26日、胃がんのため85歳で死去するが、死の直前まで、唯一無二の個性を誇るシャンソンを歌い続けた。
【執筆者】サエキけんぞう(さえき・けんぞう):大学在学中に『ハルメンズの近代体操』(1980年)でミュージシャンとしてデビュー。1983年「パール兄弟」を結成し、『未来はパール』で再デビュー。「未来はパール」など約10枚のアルバムを発表。1990年代は作詞家、プロデューサーとして活動の場を広げる。2003年にフランスで「スシ頭の男」でCDデビューし、仏ツアーを開催。2009年、フレンチ・ユニット「サエキけんぞう&クラブ・ジュテーム」を結成しオリジナルアルバム「パリを撃て!」を発表。2010年、デビューバンドであるハルメンズの30周年を記念して、オリジナルアルバム2枚のリマスター復刻に加え、幻の3枚目をイメージした「21世紀さんsingsハルメンズ」(サエキけんぞう&Boogie the マッハモータース)、ボーカロイドにハルメンズを歌わせる「初音ミクsingsハルメンズ」ほか計5作品を同時発表。