4月24日はトニー・ヴィスコンティの誕生日。1944年生まれなので今年で73歳となる。
トニー・ヴィスコンティは、Tレックス、そしてデヴィッド・ボウイのプロデューサーとして有名だ。特にTレックスはヒットした全作品に関わっているし、マーク・ボランを世に出した功労者がトニーといっても過言でない。ロック・ファン誰もが、そこまでは何となく知っていること。
では、トニーは何をした? プロデュースって何をするの? マーク・ボランとボウイに対して同じように関わったの? と突っ込むとなると「ウッ?」となるに違いない。近来登場した資料をヒモ解きながら、ヴェールに包まれていたトニーという偉人を解き明かそう。
ヴィスコンティという有名映画監督と同姓でお気づきのように、彼はニューヨーク下町の イタリア人コミュニティに育った。中学生時代は、ドゥーワップ・グループに加入し、さらに参加していたバンドでブリル・ビルディング近隣の音楽ビルで初レコーディングもしたという。そこまでのキャリアは、同じイタリア人コミュニティから生まれたボーカル・グループ、フランキー・ヴァリとフォーシーズンズと遠くないことが分かる。ベーシストであった彼は、クラブで演奏するバンドをいくつか経験した後に、作家としてリッチモンド・オーガニゼーションに所属。60年代前半は10代にして60年代アメリカ音楽の牙城、ニューヨークのポップス界を垣間見ることになる。そうしたポップスの基礎を知っていることがトニーの大きなポイントだ。
しかしサイケデリックが降誕する時期、1967年にムーディ・ブルースやマンフレッド・マン、プロコル・ハルムを手がけた60年代英国のトップ・プロデューサー、デニー・コーデルにヒョンな縁で拾われ、67年4月ロンドンに移住したことが、ロックに革命を起こすきっかけとなる。
トニーは、弦楽の勉強をしていたため、渡英後は即戦力のプロデューサーとして、デニー・レイン等のレコード制作でただちに頭角を現す。67年秋、マーク・ボランとデヴィッド・ボウイに立て続けに会い、運命の歯車が回り出す。68年4月ティラノサウルス・レックス(Tレックスの前身)のシングル「デボラ」が早速ヒット。トニーはマークに風呂も貸していたと下世話な若き日の姿があった。
70年代初頭までアコースティック期のマーク・ボランの世界観を引きだしたのは、トニーの魔法のようなストリングス編曲、独特の声質を生かすエンジニアリングだ。トニーが持っていたストラトキャスターにマークが興味を示しTレックスのエレクトリック化が起こった。71年9月、ニューヨーク録音『電気の武者』が世界的な大ヒット。Tレックスもトニー・ヴィスコンティも第一線に飛び出す。
一方、デヴィッド・ボウイについては2作目の『世界を売った男』(71年)をトニーが全面プロデュースした他は、マーク・ボランがトニーを独占していたいがため遠ざかる。Tレックス『スライダー』『タンクス』と大ヒットアルバムを次々制作するも、徐々にマンネリ化するサウンドに対し警句を発するトニー。マークと溝が生じていく。『ズィンク・アロイと朝焼けの仮面ライダー』(74年)を最後にTレックスとは離れることになり、不調になったマークは77年、悲劇の交通事故死を遂げる。
トニーは、エンジニアであり楽器奏者でもあるため、編曲を含め常に実験的で革新的なサウンドを作ってきた。Tレックスの独創的なロックンロールは「ブギー」と称されるが、5,60年代のブギーとは異なる構造を持ち、そのサウンドで70年代の偉大なるロック・ルネッサンス「グラム・ロック」を打ち立て、一時はビートルズを凌ぐ勢いともいわれた。Tレックス・サウンドとは、遅めのテンポのロックをパーカッションやストリングスの独特なバランスでまとめ上げ、そこにエフェクトがかった魔術師のようなマークのボーカルが人々を幻惑させた。
Tレックスとの仕事を終える頃、今度はデヴィッド・ボウイから連絡が来る。まだ契約のあったマークに気を遣ってか?大々的に喧伝されなかったが、ボウイのグラム・ロック期の最終作74年『ダイヤモンドの犬』の画期的なミックスはヴィスコンティによってなされ、実質の共同プロデュース作となり、ボウイの針路を決定的にした。
72年からのボウイのグラム=ジギー期は、ギター:ミック・ロンスンとのスパイダース・フロム・マースとの演奏によって作られたが、73年7月のツアーラストで、突如として解散を発表。次のフェイズに突入した。ボウイの意図は、グラムのままでは米国ブレイクが難しいとの判断だったようだ。『ダイヤモンドの犬』はトニーの音作りにより、今日的に整理されたデジタル指向のロック・サウンドとなった。恐らくロックで初めて使われたイーブン・タイドのデジタル・リヴァーブが大活躍、ボウイ自ら弾いたギターも、ソウル指向の新しい編曲を模索した。トニーは続く『ヤング・アメリカン』(75年)のプロデュースを大成功させ、ボウイは念願の米チャートNo1を、ジョン・レノンとの共作曲「フェイム」で果たす。
さらにボウイとはイーノとのコンビによる『ロウ』(76年)『ヒーローズ』(77年)『ロジャー』(78年)の実験的ヨーロッパ三部作、『スケアリー・モンスターズ』(80年)という創作の頂点期のプロデュースを行う。そして一旦ボウイのプロデュースを離れ、90年末に再会、遺作の『★(ブラックスター)』という大作に至るまで添い遂げることになる。
作品を列挙しただけでも、実験的なプロデュースワークが伝わる。さらに経過を知れば、献身的にジックリと作品に関わり、人間的にも深いサポートを行ってきたことが伝わる。音楽に対して楽天的でポジティヴなアプローチを行うイタリア人気質でサイケ時代からのロックのサウンドの革命に関わるという極めてユニークな人生だ。
今回は触れる余裕がないが、アップルの歌姫メリー・ホプキンを妻とし、離婚後89年にはあのジョン・レノンの「失われた週末」期の愛人、メイ・パンを妻とするという、モテ男ぶりについても、改めて触れたい。
【執筆者】サエキけんぞう(さえき・けんぞう):大学在学中に『ハルメンズの近代体操』(1980年)でミュージシャンとしてデビュー。1983年「パール兄弟」を結成し、『未来はパール』で再デビュー。「未来はパール」など約10枚のアルバムを発表。1990年代は作詞家、プロデューサーとして活動の場を広げる。2003年にフランスで「スシ頭の男」でCDデビューし、仏ツアーを開催。2009年、フレンチ・ユニット「サエキけんぞう&クラブ・ジュテーム」を結成しオリジナルアルバム「パリを撃て!」を発表。2010年、デビューバンドであるハルメンズの30周年を記念して、オリジナルアルバム2枚のリマスター復刻に加え、幻の3枚目をイメージした「21世紀さんsingsハルメンズ」(サエキけんぞう&Boogie the マッハモータース)、ボーカロイドにハルメンズを歌わせる「初音ミクsingsハルメンズ」ほか計5作品を同時発表。