オリンピック中継11回 アメリカで殿堂入り元NHK羽佐間正雄

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オリンピック中継11回 アメリカで殿堂入り元NHK羽佐間正雄

高嶋 今週のやじうま好奇心は、レジェンドアナウンサーを直撃しています。
きょうのレジェンドは、本物のレジェンドです。
最終日金曜日のトリを飾るのは、
数々のスポーツ中継で感動を伝えてきた元NHKの
羽佐間正雄(はざま・まさお)さんです。

《羽佐間正雄(はざま・まさお)プロフィール》
1931年10月29日生まれ。1987年12月、オリンピックを始めとする数々の国際スポーツの実況が評価され、アメリカで殿堂入りした。全米スポーツキャスター協会から贈られた賞は、国際部門の第1号としての栄誉であった。今日まで日本人としては唯一の受賞者である。1954年(昭和29年)NHK入局以来、国内にとどまらず海外に広く及んだスポーツ実況は歴史とともに今も記録に残るもので、オリンピックは夏冬合わせて11回に及んだ。その間に1979年から81年まではNHK「ニュースセンター9時」のスポーツキャスターとしても飛び回った。1988年 退職後もNHK契約第1号キャスターとなる。さらにその後もフリーとなり長年にわたって民放局でも活躍した。その間にCM放映、講演、研修、そして著書の出版にも多くの体験から幅広く行動してきた。

高嶋 キャリアとして、60年何年になりますかね。

羽佐間 そうですね。60年超えていますね。

高嶋 東京オリンピックを含めて、オリンピック11回やってるって?

羽佐間 冬6回の夏5回。モスクワが飛んだでしょ。あれをやっていれば
12回でアナウンサーの世界タイ記録でした。

高嶋 モスクワをボイコットしなければ、並んだんですか。
世界でそんな記録をとっているんですね。

羽佐間 それでアメリカから殿堂入りっていう事になって。
えらい事になったなぁと思いました。

高嶋  それだけ数多くやったオリンピックの実況の中で、
思い出す事が多いのは?

羽佐間 やはり1964年の東京オリンピック。
その時、私、たまたま担当したのが棒高跳び。
午後1時に私、放送席に座りましてね。
なかなか終わらない。終わったのは夜の10時過ぎですから。
まー腹が減って、腹が減って。

高嶋  9時間に渡る棒高跳びについてお書きになられた文章が
高校生の教科書の巻頭を飾っているという。

羽佐間 これがね。読んで下さった大学の教授の方が
「これは作家にないものがある」と言われて。
スポーツ実況ですからね。
夜、ライトアップされた棒高跳びを「月下の決戦」と表現したり。

高嶋  しかし、棒高跳びもそうですけど、長いものにご縁があるそうですね。

羽佐間 長いんです。

高嶋  高校野球中継では三沢高校と松島商業の延長18回、そして再試合。
翌日も実況をおやりになったんですか?

羽佐間 もちろんです。延長18回終わって、みんなで飲みに行って、
翌日を忘れていたんですね(笑)。

高嶋 再試合ですからね。

羽佐間 とにかく青森から出て来て、太田幸司投手はよく投げましたね。
人気も凄かった。
宿舎の周りをファンが囲んで、一歩も出られなかった。

高嶋 ご自分の実況で自慢するのも何かと思いますけども。
周囲に褒められた名フレーズみたいなものはありますか?

羽佐間 うーん。実は終わった後、自分ではどうしても納得してない。
納得したものはないんでしょうかね。
ここで極まったと思ったら、現役は終わりかもしれません。

高嶋 陸上のベン・ジョンソンを「筋肉の塊」と実況されましたが、
ああいったフレーズはあらかじめ用意されていたんですか?

羽佐間 全くアドリブではなければ、信憑性もないのかもしれません。

高嶋 まだ終わった訳ではないので、変な質問かもしれませんが、
ここまでの半生を振り返っていかがですか?

羽佐間 平凡なサラリーマンをやってみたかったですね。
日曜日は一番忙しかったし、家庭的な職業ではなかったですね。

高嶋  でも、もてたでしょ?

羽佐間 そんな暇はない(笑)。

高嶋  スポーツアナウンサーはどれだけ実力があっても、いい試合に
当たらなかったら、意味がない。

羽佐間 これは絶対、運、不運。私の場合は上の人が消えただけです。

高嶋 貴重な時間をありがとうございました。

羽佐間 あなたは私にないものを持っていらっしゃる。

高嶋 声が上擦ったところでお開きにしたいと思います(笑)。

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