本日11月6日は本田美奈子.の命日である
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唐突に私事で恐縮だが、筆者は2015年2月以来、埼玉県朝霞市在住である。ここ2年というもの、朝霞市やその周辺にまつわるスキャンダラスなニュースが全国をかけ巡ることが度々あって、その都度複雑な気分に襲われるが、少なくとも現在の筆者にとっては安住の地となっている。そんな埼玉県朝霞市が誇る唯一無二の歌姫といえば、2005年の今日11月6日、白血病という難病との戦いの末38歳という短い生涯を閉じた、本田美奈子.である。2歳の頃から亡くなる間際までこの街で過ごし、この街をこよなく愛した美奈子.の遺志は、街全体に受け継がれ、2007年には駅前広場に記念碑が設置されるに至った。彼女が亡くなる寸前に設立されたチャリティ募金活動NPO "LIVE FOR LIFE" へのバックアップも未だに続いている。まさに朝霞市民の誇り。
そんな本田美奈子.は、1985年4月20日、東芝EMI(当時)から「殺意のバカンス」でアイドルとしてデビューした。もちろん、名前の最後の「.」はまだ付け加えられていない。その前後にデビューした新人アイドルといえば、斉藤由貴、中山美穂、浅香唯、南野陽子などなど、まさに激戦区。そんな中、芳本美代子と並ぶ筆者の激推しだったのが、本田美奈子だった。ある時期までは熱心に活動を追いかけたものである。というわけで、今回は極私的な想い出を中心に、アイドル・本田美奈子の初期の軌跡を振り返るコラムにしてみたいと思う。
東芝EMIアイドルの「推し度」は、親会社のCMでの露出度に反映すると言われているが、デビュー早々企業CMやラジカセのイメージキャラクターに起用された彼女の場合、まさに「激推し」だったといえよう。当時、東芝に可愛がられていたアイドルといえば、角川三人娘の薬師丸ひろ子と原田知世、EMIと密接な関係にあったトーラス所属の早見優あたりが挙げられるが、美奈子はその一角を崩す純正EMI製アイドルとして期待を抱かせるオーラを、デビュー決定早々から保有していた。
とはいえ、レコード歌手としての魅力を図る度合いは、やはり「歌唱力」。当時のアイドル群に混ぜてみれば突出しすぎと言える表現力を認められ、演歌でのデビューまで画策されていたというが、それじゃ所属事務所・ボンド企画のカラーと不釣り合いである。結局与えられたデビュー曲「殺意のバカンス」は、陰影に富んだ曲調に伸びやかな歌声が冴える、まさに当時のアイドルトレンドからかけ離れた楽曲であった。結果的に、オリコンチャート21位に到達するヒットとはなったが、スタートとしては「第2走者陣」に属してしまうこととなる。
そんなデビューの2ヶ月後、浦和(現・さいたま市)にあったデパートで開催されたキャンペーンで、筆者は美奈子を目撃することになった。これが結局唯一の「生美奈子体験」となったのである。同じ日同じ場所で、のちに「鉄骨娘」で国民的アイドルに躍り出ることになる鷲尾いさ子(筆者は彼女にも並々ならぬ思い入れがあるので、別の機会に書くことができればと思っている)のキャンペーンも行われており、豪華ダブルキャストを見逃す手はなかった。やはり実物は可愛い。アイドルオーラ半端なかった。そのキャンペーンで逸早く披露されたのが、翌月リリースされた2枚目のシングル「好きと言いなさい」だった。
当初はデビュー曲にするという案もあったこの曲は、彼女自身もあまりにもアイドル王道すぎるという理由でお気に入りではなく、後に発売された最初のベスト盤にさえ選曲されないという有様だったが、この曲での今でいう「ツンデレ」歌唱に魅せられてしまい、ファンになった者も実は少なくないのだ。こちらもオリコン21位と、前作と同程度のヒットに。さらに8月には、コアファン向けアイテムとして、ハート型カラーレコード「青い週末」が限定リリースされた。このB面に刻まれた「モーニング美奈子ール」は、当時カセット企画にありがちだったファンサービス的マテリアルだったが、今となってはここで聴かれるありのままの肉声が、たまらなく愛しい。
そして決定打となったのが、公式シングルとしては3枚目となる9月発売の「Temptation (誘惑)」だった。初めて作詞に松本隆を起用し、従来より背伸びしたというか、リリカルな新生面を見せたこの曲は、東芝の暖房器具のCMソングに起用。当然、国民的アニメ「サザエさん」のCMタイムにも大量に流れるという宣伝効果により、初のベスト10入り、チャートイン期間も20週(アイドルのシングルの20週チャート入りは、演歌だと2年チャートインに該当する偉業だ)という大ヒット。一躍、美奈子は国民的アイドルへの道を歩み出したかと思われた。
しかし、ここからが彼女のパンクな個性の面目躍如。続いて11月リリースされたファーストアルバム『M'シンドローム』を皮切りに、作詞・イメージプロデューサーに秋元康を起用し、アンチアイドル的イメージを打ち出し始める。当時の秋元といえばおニャン子クラブだが、現在の「AKBに対する乃木坂」的ライバル関係ではなく、意図的におニャン子のアンチを自ら作り上げたのではないかと思われる程のしたたかな計算を見せた。彼女自身が度々放ったアンチアイドル的発言も、今振り返ってみれば本心でなかったのかもしれない(現に南野陽子や森口博子とは、とても仲が良かった)が、スタッフ陣がそれに応えて大胆な方向性を模索する方針に出たのは、アーティストアピールとしてはかえってマイナスだったのではないか。
その極致と言えるのが、ゲイリー・ムーア、ブライアン・メイを筆頭とする、海外のロックミュージシャンからの曲提供だった。完成したものは、美奈子のヴォーカル力のおかげで素晴らしい出来となったのは良かったけれど、こういった活動方針のせいで、洋楽ファンからのバッシングが最高潮に達することになる。「アイドルのくせに何よ」みたいな一般からの声が、FM雑誌の投書欄を賑わし、見ていて辛い気分になったことを覚えている。アンチアイドル路線の後期にリリースされた「孤独なハリケーン」あたりには、ロック歌手への接近というより、ピーピーピーと歌っていた頃の長渕剛(その頃は彼も秋元ファミリーと言える一人だった)に通じる無茶な力み感を、今聴くと感じてしまう。
ところでデビューした1985年を締めくくる出来事といえば、12月7日に武道館での公演を敢行したことであり、筆者はそれを観ることは叶わなかったが、翌年リリースされたライヴ盤『MINAKO ザ・ヴァージン・コンサート』に永遠に記録されている。そのライヴのバックバンドとして、女性ミュージシャンのみによるバンドを編成するという構想があったことを、そのギター候補となった人物から聞くことができたが、それがやっと実現したのが88年に結成した「MINAKO with WILD CATS」であった。この野心的な試みも、先に菊池桃子が結成した「ラ・ムー」がネタとして語り継がれるような実態に終わってしまったこと、忌野清志郎が提供したデビュー曲「あなたと、熱帯」のタイトルに非難が集中したことなども手伝い、殆ど「なかったこと」同然とされてしまったのが、あまりにも悲しい。しかし、そんな生温い事態からの脱却手段として、彼女はミュージカル「ミス・サイゴン」の重要な役柄へと挑み、それが大成功に至る。ここからは、アイドルを演じるのではなく、自ら歌へと没入する本格派歌手としての新しい人生の始まり。2000年代には、クラシカル・クロスオーバーという全く新しい道に足を踏み入れ、その実力が遂に認められるが、それと同時に生涯を苦しめる病魔との戦いが始まることとなる。アイドル時代には決して見せられなかった人間・美奈子.(2004年から「.」を追加)の豊かな心は、皮肉なことにこの頃から万人の共感を得始めることになるのだ。
今となっては、彼女が遺した全ての歌、映像がたまらなく愛しい。今後も11月が来ると、フレディ・マーキュリーと本田美奈子.の歌を聴いてしみじみと感慨に耽るに違いない。二人のデュエット、天国で実現しているのだろうか。
【著者】丸芽志悟 (まるめ・しご) : 丸芽志悟 (まるめ・しご) : 不毛な青春時代〜レコード会社勤務を経て、ネットを拠点とする「好き者」として音楽啓蒙活動を開始。『アングラ・カーニバル』『60sビート・ガールズ・コレクション』(共にテイチク)等再発CDの共同監修、ライヴ及びDJイベントの主催をFine Vacation Company名義で手がける。近年は即興演奏を軸とした自由形態バンドRacco-1000を率い活動、フルートなどを担当。 5月3タイトルが発売された初監修コンピレーションアルバム『コロムビア・ガールズ伝説』の続編として、新たに2タイトルが10月25日発売された。