1975年11月1日、久保田麻琴と夕焼け楽団の名盤『ハワイ・チャンプルー』がリリース

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久保田麻琴と夕焼け楽団を介してさまざまな音楽を教えられた。そんな風に思っている方は多いと思う。73年の『サンセット・ギャング』では、ブルースや古いジャズを下敷きにしたレイジーな音楽を、77年の『ディキシー・フィーバー』では、テックス・メックスやアメリカの南部に広がる音楽を、79年の『セカンド・ライン』では豊潤なるニューオーリンズの音楽を。これらのルーツ・ミュージックを、日本語のロックとして教えてくれたのが、久保田麻琴と夕焼け楽団であった。そして、75年に発表された『ハワイ・チャンプルー』では、ハワイと沖縄のふたつの場所に跨がるアイランド・ミュージックの楽しさを伝授してくれた。

タイトルの<チャンプルー>は沖縄の言葉に由来する。ゴーヤーを使った炒め料理がゴーヤー・チャンプルーと呼ばれるように、「ごちゃまぜ」といった意味があるのだ。同じ島国のハワイと沖縄をチャンプルーしたら、どんな音楽が生まれてくるだろうか。そんな久保田麻琴ならではのゴッタ煮感覚から生まれたアルバムだ。

録音場所に選んだのは、ホノルルのサウンズ・オブ・ハワイ・スタジオ。ハワイには色々な文化が混在している。ハワイは、世界中から移民が集まってきた島である。初期のポリネシア系の人々だけでなく、クック船長に発見されてからは白人たちが、その後も、中国や日本からも大量に移民が移り住んでいる。この西洋と東洋と南国とが、不思議に溶け合っているのがハワイなのだ。

夕焼け楽団のメンバー4人に加え、ペダル・スティールの駒沢裕城、新進気鋭のピアニストであった国府輝幸、そして本作ではドラマーとして参加の細野晴臣の一行でハワイの地に降り立った。1曲目は、これぞハワイといった雰囲気の「ブルー・ハワイ」のイントロに続き、軽快な「スティール・ギター・ラグ」が始まっていく。実はこの曲はハワイ産の曲ではなく、ボブ・ウィルズ&テキサス・プレイボーイズなどで活躍した名スティール奏者のレオン・マッコーリフが作ったウエスタン・スウィングのナンバー。こんなところにも、すでに久保田麻琴のマジックが隠されている。

「ウォーク・ライト・イン」は、ガス・キャノンのジャズ・ストンパーズが1929年に録音し、60年代のリヴァイヴァル・フォーク期にはルーフ・トップ・シンガーズの歌声でヒットした。日本でもダニー飯田とパラダイス・キングが「ポッカリ歩こう」のタイトルでカヴァーしていたのをご存じだろうか。夕焼け楽団の初期のレパートリーで、アルバム・デビューの前から演奏していた曲でもある。レイドバック具合が実に最高で、間奏での井上ケンちゃんのギター・ソロも夢見心地になってしまいそうだ。

他にも、中華風のアレンジを盛り込んだ南正人の「上海帰り」や、国府輝幸のドクター・ジョンばりのニューオーリンズ・ピアノで始まる「バイ・バイ・ベイビー」、それにポピュラーのスタンダードの「国境の南」に日本語の歌詞をのせた曲があったり、チャンプルー感覚に溢れた名曲ぞろい。そしてやはり、ハイライトは「ハイサイおじさん」になるだろう。

この曲は喜納昌吉のデビュー曲で、地元沖縄のマルフク・レコードから発売され大ヒットになっていた。この曲に目を付けるあたりが久保田麻琴の慧眼。ストレートにカヴァーするのではなく、ハワイアン風味のイントロダクションを付け足したり、ロックのビートを練り込んだり、しっかりと自分たちの音楽にしているところが流石だ。

喜納は77年に『喜納昌吉とチャンプルーズ』でメジャー・デビューし、自己ヴァージョンの「ハイサイおじさん」を全国ヒットさせていく。そのきっかけとなったのが、この夕焼け楽団のヴァージョンであったのだ。喜納昌吉が名曲「すべての人の心に花を」を収録したアルバム『BLOOD LINE』を録音したのがハワイであり、この作品にゲスト参加したライ・クーダーを紹介したのが久保田麻琴であった。こんな話も、なにか因縁めいたものを感じてしまうが、その名作アルバム、久保田麻琴と夕焼け楽団『ハワイ・チャンプルー』が発売されたのが、75年の11月1日であるのだ。

【著者】小川真一(おがわ・しんいち):音楽評論家。ミュージック・ペンクラブ・ジャパン会員。ミュージック・マガジン、レコード・コレクターズ、ギター・マガジン、アコースティック・ギター・マガジンなどの音楽専門誌に寄稿。『THE FINAL TAPES はちみつぱいLIVE BOX 1972-1974』、『三浦光紀の仕事』など CDのライナーノーツ、監修、共著など多数あり。
1975年11月1日、久保田麻琴と夕焼け楽団の名盤『ハワイ・チャンプルー』がリリース

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