1967年の本日、ザ・テンプターズが「忘れ得ぬ君」でデビュー
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今日10月25日(1967年)はザ・テンプターズのデビュー曲「忘れ得ぬ君」の発売日である。
埼玉の大宮西高校の田中君(g)と高久君(b)がザ・テンプターズと云う名前のグループを結成したのは65年、これに大宮工業高校の松崎君(vo&g)が加わり、当時は女性ヴォーカリストと女性のキーボード奏者もいたという。地元大宮のダンスホール「大蔵」でのステージに飛び入りで参加して歌ったのが聖橋中学3年のショーケンこと萩原健一でいつの間にか正式メンバーになる。メンバー・チェンジを繰り返した末66年10月に東京・恵比寿の『中川三郎ディスコティック』のオーディションに合格、系列店の専属バンドとして人気を集めてゆく。さらに67年2月にドラマー脱退の後を受けてジュニア・テンプターズから抜擢されたのが大口広司(早稲田実業高中退)であった。
芸能プロ数社からデビュー話がもちかけられた末、ホリプロに決まりかけたが最後に声をかけたザ・スパイダーズの田辺昭知のスパイダクション(ホリプロから独立)と所属契約を交わしたのが5月、池袋「ドラム」出演が初仕事となる。6月13日にはTBSテレビ系列の『ヤング720』で「忘れ得ぬ君」を演奏したのがテレビ初出演であった。8月末からの『日劇ウェスタン・カーニバル』でも「忘れ得ぬ君」のほか得意のローリング・ストーンズ・ナンバーを披露し、マスコミからも熱い注目を集めた。“埼玉のストーンズ”と呼ばれるようになった彼らのライブ・ステージは、若い女性ファンが熱狂し、リーダーの松崎“ヨッチン”が泣きながら歌う「忘れ得ぬ君」には失神するフアンもいたようだ。レコード・デビューの半年前からファンの過熱状態は続いていたのである。
フィリップス・レコードは、ザ・スパイダーズと同様に新興楽譜出版(現シンコー・ミュージック)とザ・テンプターズの原盤録音契約を交わし8月にデビュー・シングルのレコーディングに入った。シングルのA面には評判の「忘れ得ぬ君」(松崎由治作詞・作曲)に初めから決めていた。しかしカプリング曲がない。「忘れ得ぬ君」はショーケンもハーモーニ-を歌いメロディにブルース・ハープで絡むがソロ・ヴォーカルはヨッチンである。
ショーケンが歌うオリジナル曲はまだ松崎君が作るテンプターズのレパートリーにはない。かと言って他のプロの作家に新曲をオーダーする考えも更々なかった。そんな中、当時洋楽のシングル盤の編成業務もまだ兼任で担当していた小生が海外から送られてくる大量の新曲サンプル盤の中からたまたま見つけた曲がリビング・デイライツのLet’s live for today(今日を生きよう)であった。オリジナルはザ・ロークスでグラス・ルーツが67年にヒット(全米8位)させた曲のカヴァーである。これならショーケンにぴったり合いそうだと思い、早速旧知の作詞家なかにし礼氏に訳詞を依頼した。見事ショーケンが歌うに相応しい詞が上ってきた。
演奏はリビング・デイライツのヴァージョンを参考にテンプターズ・サウンドに作り上げた。
ショーケンもうまく歌ってくれた。これで両A面と謳って十分なカプリングのデビュー・シングルに仕上がった。
発売日は10月25日、ザ・タイガーズのデビューに遅れること8ヶ月と20日である。
フィリップス・レコードからのビート・グループのデビューはザ・スパイダーズに始まって彼らが6番目のグループということになる。
デビュー曲のレコード店からの初回オーダーは過去に例がないほどの反響で3~4万枚と高を括っていたら7万枚を超えたのである。累計では20万のセールスに達し、ザ・タイガーズのライバル・グループとしての前評判を裏付けた格好になった。
【著者】本城和治(ほんじょう・まさはる):元フィリップス・レコードプロデューサー。GS最盛期にスパイダース、テンプターズをディレクターとしてレコード制作する一方、フランス・ギャルやウォーカー・ブラザースなどフィリップス/マーキュリーの60'sポップスを日本に根付かせた人物でもある。さらに66年の「バラが咲いた」を始め「また逢う日まで」「メリージェーン」「別れのサンバ」などのヒット曲を立て続けに送り込んだ。