1976年12月14日、ベイ・シティ・ローラーズが初の武道館公演
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1976年12月14日はビートルズの再来とまで言われたベイ・シティ・ローラーズが初めて武道館公演を行った日
1970年代、ベイ・シティ・ローラーズ=通称BCRの人気は凄まじかった。ロック雑誌はもちろんのこと、普段は日本の芸能人しか扱っていなかったような雑誌までもがBCRの記事を掲載し、テレビ番組も来日時やコンサートの様子をこぞって紹介した。ロックファンの中には「彼らはロックバンドじゃない、アイドルバンドだ」と言って否定する人も多かったが、彼らに夢中になるあまりに家出をしてスコットランドまで行ってしまった少女のことがニュースで取り上げられたり、彼らの音楽を聴くことを禁止する学校が続出したり、つまり日本で一種の社会現象にまでなった外国のバンドという意味では、ビートルズ以来の存在だったと言っても決して過言ではないと思う。
ベイ・シティ・ローラーズは1960年代半ば、スコットランドの首都エジンバラでアランとデレクのロングミュアー兄弟によって結成された。最初はどこにでもいるようなロックバンドだったが、彼らの運命はタム・ペイトンというやり手のマネージャーと出会ったことで急激に変わり始める。
何度かメンバー・チェンジを繰り返した彼らは、やがてレスリー・マッコーエン、エリック・フォークナー、スチュアート“ウッディ”ウッドというルックスと実力を兼ね備えたメンバーを加えた5人構成になる。そして衣装もスコットランド伝統のタータンチェックをあしらったシャツと丈の短いワイドパンツという、アイドルそのもののキュートなものに変わった。
彼らがブレイクしたのは1975年。フォーシーズンズのカバー「バイ・バイ・ベイビー」が全世界で大ヒットしたのを皮切りに、「サタデーナイト」「二人だけのデート」(ダスティ・スプリングフィールドのカバー)と次々にシングルをリリース。ヒットを連発した。
BCRがコンサートを行うと、世界中どこでもタータンチェックの洋服に身を包んだローラーマニアと呼ばれる少女たちが押し寄せた。いつからか彼らの人気ぶりは“タータン・ハリケーン”と呼ばれるようになり、そのハリケーンはやがて“タータン・タイフーン”となって日本にも上陸した。
そんな中、遂にファン待望の来日公演が決まったのだ。
BCRが初めて日本の土を踏んだのは1976年12月11日。羽田空港で飛行機のタラップをメンバーが一人ずつ降りてきた時の様子は、たくさんのカメラマンによって写真やビデオに収められた。まるでビートルズのように。
そして来日4日目の14日、彼らは日本武道館のステージに立った。超満員のステージ、そしてレスリーの歌声が聞こえなくなるほどの歓声と悲鳴。その凄まじいほどの熱気の中、史上最高の失神者(一説には50人以上と言われている)が出たというから驚きだ。
いったいBCRの魅力は何だったのか。何があれほど少女たちを夢中にさせたのだろうか。当時、「ロック・ショウ」という雑誌の編集部にいて彼らを何度も取材した私には、彼女たちの気持ちが何となくわかるような気がする。
あの頃の彼らは本当にキラキラと輝いていた。どこか幼さを残した感じのウッディ。物静かでハニカミ屋のデレク。ちょっと気難しそうな感じがアーティスティックに見えたエリック。そしてハンサムなのに気取りがなくてヤンチャぶりが可愛かったレスリー。それぞれ違った個性が光っていて、本当にチャーミングだった。
BCRはその後、レスリーが脱退して別のボーカルが入ったり、一時メンバーだったイアン・ミッチェルやパット・マッグリンが別のバンドを作ったり、いろいろな動きを見せていたが、数年前から再びオリジナル・メンバーが集まってベイ・シティ・ローラーズとして活動しているようだ。そしてそんな彼らが来日すると、今もかつてのローラーマニアたちが会場を埋め尽くすらしい。
彼らは2018年にもファンのリクエストに応えて、何度目かの来日公演を予定しているという。
【著者】榎本幸子(えのもと・さちこ):音楽雑誌「ミュージック・ライフ」「ロック・ショウ」などの編集記者を経てフリーエディター&ライターになる。編著として氷室京介ファンジン「KING SWING」、小室哲哉ビジュアルブック「Vis-Age」等、多数。